第十七回酒折連歌賞 総評


問いの片歌一 自転車のギヤを一段あげよう今朝は  三枝エ之 先生

 さあ今日も一歩自分なりのチャレンジをしたくなるさわやかな朝、そのときにあなたはどんな一歩を踏み出しますか。これが私の問いの片歌です。
 身近な自転車だったからか、ものすごい数の応募がありました。反応が多いのはうれしいですが、選考は大変でしたが、そんな痛し痒しも楽しい思い出です。
 多かったのは、ヤバイ学校へ遅刻しそうだ、というプランです。トーストをくわえながら、といった答えもありましたよ。在校生だけでなく、四十代より上の世代からも寄せられたこの種のプラン、みんなが体験して、学校ならではの記憶ですね。
 他で目立ったのは、君に会いにゆくため、あの丘を越えるため、ミスチルなど歌をくちずさみながら、といったプランでしょうか。どのプランも問いの片歌をよく受けた問答になっていて大変心強く感じました。
 大賞に選ばれたのは今村君の「アンナプルナ」。とても不可能なプランですが、酒折連歌の問答は詩の遊びでもあり、「さあどんなチャレンジをしますか」という問いを詩の楽しさにしたところが見事でした。
 さまざまな年齢層が一つの問いへの答を競い合うところに酒折連歌の楽しさがあります。来年も楽しみながら答えの片歌を寄せてください。


問いの片歌二 だれか来る木々の匂いと風をまといて  宇多喜代子 先生

「問いの片歌」はどれも「答え」と一体になって完成するという、他の文芸にないおもしろさをもっているのが「酒折連歌」の特異なおもしろさです。一つの問いに幾人もの方々が答えを提供してくださる。それも十歳未満の方から九十歳以上の方までという幅の広さの方々からの答えが届くのです。
 甲府市長賞を受賞した今田さんの作品、問いの片歌三の「啄木」と答えの「キツツキ」とは、字だけを見れば同じ鳥の名なのですが、作品になったところで歌人石川啄木と、比喩として用いられた鳥のキツツキが明確に分かれます。それを繋いでいるのが、連歌形式のことばの多義性と関係性です。
 おおくの応募作品のおおむねは、そこを心得て書かれておりました。なかには「わかり過ぎる」答え、つまりこの問いにはこう答えるのがあたりまえ、そんな答えもありました。水中の根っこで繋がり、水面では離れて見合う、それがこの問答のおもしろさです。
 毎回、問いの片歌一から五までの問いにどんな答えが届くか楽しみです。今回の問いの片歌五の答え・山梨県知事賞を受賞した伊賀浮ウんの「不確かな」「でも確実な」を見ました時に、ああ私たちは常にそんな状態を「存在証明」として日々を暮しているのだなあ、と考えさせられました。
 「言の葉連ねて歌あそび」というのがこの連歌の惹句です。この「歌あそび」のゆとりをもって真摯に問いの歌を返す、来年もまたそんな答えを楽しみにしております。


問いの片歌三 啄木のひたいに触れて聞くかなしみは  今野寿美 先生

 今日なお広く親しまれている近代歌人石川啄木について「でこちん」であったとする追想が残っています。広くて存在感のある額は知的な魅力を放ち、どこか愛嬌さえまつわらせて啄木人気を支えているのではないでしょうか。今回の問いの片歌は、生活苦のままに早世した悲運の才能啄木の歌にあらためて心を傾けてみませんか、といった誘いかけのつもりでした。
 寄せられた答えの片歌には、世代間の差がうかがえました。教科書に登場する歌人としてトップクラスの啄木に刺激され歌集『一握の砂』を読んでみたり、それがきっかけで短歌に関心をもつようになるという例は、すでにはるか昔の話なのかもしれません。それだけに飯塚和一氏の「泣きぬれる暇など無いぞ平成の海」には、啄木のメランコリーを踏まえて一喝する現代的おもしろさがありますし、松下弘美氏の「笠智衆になれずに若き俳優の死す」では、老人役で実にいい味わいを見せた役者を引き合いに啄木の短い人生を哀惜する巧みな構成が光って見えました。
 一方、高校生高田爽生さんの「天才のもがき苦しみ我に分からず」や、同じく端愛理さんの「わたくしの弱いくちばし何もつつけず」には、みずからの才能を恃み、キツツキの意の号を十代から用いた青年への素朴な反応が感じられ、中学生水野真奈香さんの「はきはきともの言うきみが救ってくれる」は啄木の明晰なイメージを立ち上がらせるという心強いものでした。


問いの片歌四 うずまきの指で描いたちいさいいのち  もりまりこ 先生

 ふとした風景を見た瞬間に、甦る記憶。浮かんだ景色の中に思い出したい過去を手繰り寄せようとするとき、記憶は、らせんを描くように、浮かび上がってくるそんな気がするときがあります。
 今回の片歌は、明確な輪郭は持たないままに、指が赴くままに描いた「ちいさいいのち」の問いかけを試みてみました。
 あらゆるものに宿っている「いのち」が、すくすくと育ってゆく。あえて具体性はない形から始まったものが、どこへ着地するのかを、答えの片歌の作品の中にみつけてみたい思いを抱きながら選考させていただきました。
 とても印象的だった八十六歳の女性の作品。「掌へ静かに渡す砂の巻貝」この作品の中には、掌を差し出している誰かの「いのち」と、年月を重ねてきた巻貝と巻貝が見てきたかもしれない「いのち」までもが、静謐な中にダイナミックに表現されています。「ぐるぐるの二重螺旋を引き継いでいく」これは、十七歳の女性の作品です。うずまきにDNAの二重螺旋をイメージした発想を起点としながら、「引き継いでいく」と、「いのち」がリレーしてゆくことへの決意を感じるまっすぐな眼差しがとても鮮やかです。
 こんなふうに、酒折連歌は世代を超えて親しめる文学であると同時に、そこには、ひとりひとりが大切な何かを伝えようとする力に支えられているものなのだと、あらためて気づかされました。


問いの片歌五 歩くこと走ること風の声を聞くこと  井上康明 先生

 東日本大震災をはじめ、世界では、戦争、災害など、人が生きてゆくこと自体が困難になることが続いて起きています。私たちを取り巻く状況も決して予断を許しません。いつか、事件や災害が起きて、私たちの生活の根底が覆されるかも知れないと、漠然とではありますが、どこかで不安を抱いているのが今の私たちではないでしょうか。
 そんな時、生きるということの最も基本的な姿とは何だろうと考えて、このフレーズが浮かんで来ました。まず、歩くこと、そして走ること、走り出したなら、風の音を聞くことを楽しむ、そんな瞬間を体験して生きていきたい、そう思ったのです。このフレーズならば、ここから思い切って飛躍して、さまざまな連想も浮かぶのではないかと考えました。
 この問いに対して、「今もなお屋根裏に住むアンネ・フランク」という牧野弘志さんの答えの片歌は、問いの片歌から連想する健康的なイメージを裏切って、遙かな時間と空間を飛び越えます。第二次世界大戦のヨーロッパ戦線に飛んで、その健康的な行為に憧れるアンネ・フランクを描きます。そして、現代の屋根裏のアンネ、さまざまな不安を抱えた人びとを連想させます。
 今年の特徴は、上位を高校生が占めたことではないでしょうか。自転車のギアを一段上げるのは「立ち漕ぎでアンナプルナを上りきるため」と言い放つ、今村光臣さんの思い切った比喩、「参観日一番乗りの僕の父さん」と、秋山恵里さんの迷うことのない一気の喜びの表現など、それぞれ言葉に勢いがあって、若々しさが伝わってきました。

 
第十七回酒折連歌賞 選評


一般部門 大賞・文部科学大臣賞  三枝エ之 先生 (選評)
問いの片歌一 自転車のギヤを一段あげよう今朝は
答えの片歌  立ち漕ぎでアンナプルナを上り切るため  今村光臣 山梨県

 私の愛車は十二段変速、ギヤを上げるとさあ行くぞとテンションも上がります。さてどんな「さあ」にするか、この答えの片歌、なんとアンナプルナに挑むため。思いっ切り飛躍したプランに驚きました。アンナプルナはネパール・ヒマラヤの中央部に聳え、人類が足跡を刻んだ初めての八千メートル峰。チョモランマよりは低いけれど、もっとも危険な山とも言われいます。立ち漕ぎでも到底無理ですが、無理に挑むのが詩のいいところ。みごとな「さあ、行くぞ」となりました。











一般部門 山梨県知事賞  井上康明 先生 (選評)
問いの片歌五 歩くこと走ること風の声を聞くこと
答えの片歌  不確かなでも確実な存在証明  伊賀部千代 福岡県

 問いの片歌に一瞬の揺らぎを見せながら、しっかりした声で答えています。歩く、走る、風の声を聞くという具体的な行為と、答えの片歌の「存在証明」という抽象的なことばが繋がって、思索へと誘います。歩く、走る、風音を聞くといった最も単純な動作は、文明の進展によって、さらには今、戦争や災害によって脅かされ、危ういものになっています。しかしそれは最も確実な人間の存在証明なのです。人の存在や肉体が危うく不確かなものになった現代に、最も単純な動作が、人にとって最も大切な行為であることに気づかされ、それは深遠な人生の真理を語っているようにも思われます。










一般部門 山梨県教育委員会教育長賞  宇多喜代子 先生(選評)
問いの片歌二だれか来る木々の匂いと風をまといて
答えの片歌  参観日一番乗りの僕の父さん  秋山恵里 山梨県

 まず「だれか来る」という呼びかけではじまる問いはそれだけでミステリーです。しかも「木々の匂いと風」という目には見えないものをまとって来るのです。
 参観日という緊張する授業に「僕の父さん」が同級生の誰の親御さんよりも先に来てくれたのです。いつもうちで見るお父さんとは違うお父さんです。
 木の匂いや風の動きなど、気がつかない人には何の興味もないものでしょうが、だれもが知らず知らずのうちに精神の滋養にしているものです。お父さんにそんな匂いや風を感じた気分の答えでした。








一般部門 甲府市長賞先生  今野寿美 先生(選評)
問いの片歌三 啄木のひたいに触れて聞くかなしみは
答えの片歌  キツツキになれずあなたの心も打てず  今田紗江 徳島県

 早熟だった石川一は、中学時代からいくつもの号を用いましたが、啄木鳥(きつつき)からきている啄木の名を愛し、二十六歳二ヵ月で果てたときの戒名も「啄木居士」でした。今田さんはその名に心を寄せて、自分もキツツキであるなら存分に幹をつつくであろうに、とロマンチストになりきれない口惜しさをにじませています。もちろんそれは人を想う心情に発しているわけですから、一人の人への想いが届かないかなしみに言い及ぶかたちになっています。啄木も恋多き青年で、けっこう愉快な失敗談も残しています。歌人啄木の面白さが甦る楽しい片歌です。









アルテア部門 大賞・文部科学大臣賞  辻村深月 先生 (選評)
問いの片歌三 啄木のひたいに触れて聞くかなしみは
答えの片歌  はきはきともの言うきみが救ってくれる  水野真奈香 静岡県

 小・中・高校生の歌を対象としたアルテア部門のいいところは、学校という場所で過ごす多感な時間が歌の中にまるごと映りこむところだと思っています。それはまるで、時間と一緒に思い出を保存するタイムカプセルのように。
 「啄木のひたいに触れて聞くかなしみ」は、おそらく誰にも打ち明けることなく、ひとり、心の中で繰り返し反芻するような静かな「かなしみ」なのでしょう。その「かなしみ」に浸るあなたを、目の前にいる誰かの──あるいは、時の向こう側にいる歌人の、「はきはきと」した物言いが救ってくれる。ひとりのかなしみの殻が他者の存在によって鮮やかに破られる瞬間を切り取ったこの歌に、胸がすくような物語性を感じました。救ってくれる「きみ」とのやり取りが、色褪せることなく歌に記憶されていくというのは素晴らしいです。





アルテア部門 もりまりこ 先生  (総評)

 ひとつの問いがあって、またひとつの答えがある。でもそのひとつの答えに辿り着くまでには、数えきれないほどの時間と思いが、揺れ動いていて。片歌と片歌をつなぐその行為は、とてもしずかなもののはずなのに、そのなかのひとりひとりの心の動きの軌跡をとらえることは、計り知れないほどおおきなものなのかもしれません。
 アルテア部門の作品を拝見していて感じるのは、若い作者のそんな未知数のこころの振幅です。「啄木のひたいに触れて聞くかなしみは」に対しての大賞作品の片歌、「はきはきともの言う君が救ってくれる」啄木に託したい切実な思いの片歌を受けて、深刻になりすぎない気負わなさで表現されています。啄木への信頼感がひしひしと伝わってきます。人と人が、まっすぐ光のあたる部分だけを信じて、軽やかに答えているところが、魅力です。
 もうひとつ印象的だった作品「うずまきの指で描いたちいさいいのち」への答えの片歌、「君の手に淡い炎は燃えていますか」ここにはイメージゆたかな独自の世界観が広がっています。うずまきの指から始まったまだ双葉のような情熱の種が「淡い炎」となってささやかに燃えている。この疑問型は誰かへの言葉でもあるし、自分自身への問いかけなのかもしれません。
アルテア部門の作品に触れる度に、応募作品の片歌が放つきらめきに未知の可能性を感じています。来年も、生まれたての答えの片歌に出会える喜びを皆様と分かち合えることを、楽しみにしています。



 
     
 

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