その八六


 





 







 




















  わすれずに わすれていても なつかしい人

電車やバスの中で読む本は
家の中でじっとして読む時よりも
グルーヴ感みたいなものが違う感じがする。

生まれてはじめて、好きな曲をイヤホンの中で
いっぱいにして
街を歩いたときの、あの景色がいきいきと
動きだしたような感じとも似ている。

耳をくすぐる音楽がBGMなのではなくて
景色そのものがもうすでにBGVになったような。

12年前ぐらいに刊行された作品をつい最近
もういちどページをめくった。

ジャズバーを経営する主人公と彼が昔好きだった
島本さんという、不思議な女の人の物語だった。

最後まで島本さんのプロフィールは、
どの欄も埋まることがないぐらい
謎に満ちているのに
島本さんという美しい女の人の
しぐさや着ているものや会話のなかにふと
おとずれる凪ぎの時のたたずまいまで
浮かんでくる。

東京方面へと向かう電車のシートの
端っこに座って、ページを開く。

大船や横浜あたりではまだわたしは
ありとあらゆる距離を感じていたのに
ふとページから顔をあげた川崎あたりでは
小説の中の片隅にいる常連めいた観客へと
変わっていて いつもと景色が違って見えた。

ホームにあふれる人たちにひとりひとりの
生活がその背中の向こうあたりにあって
まっとうにみんなひとりなんだなぁという
思いが突然過ったのだ。

小説の中のジャズバーの中のピアノトリオが
奏でる<スタークロスト・ラヴァーズ>という曲が
活字の中で蠢いて、そのページのあわいから
はみだす空気のようにあたりをふわっと包む。

そして、不安や悲しみやつかのまのよろこびが
主人公と彼女のまわりを
通奏低音のように横たわっている。

彼らの不安はわたしそのものの不安ではないはずなのに
もう彼らの想いはわたしの心情にちかづいている。

ほんとうに会いたい人にはいつか会えなくなってしまう
ものなんだなぁなんてページを閉じることが
惜しくなってしまうそんなエンディングだった。

電車の中で本を読んでいる間、ずっとずっと
満ちているのにぽっかりしている時間を
名前もしらないのにひどく親密な誰かと
共有していたような気がする。
       
TOP