その九七

 

 

 





 







 






















 

かつてはと だれかが酔えば わたしは泣くよ  

どんなに暑い日でもクーラーの
部屋からいちどは抜け出したくなる。

微熱が体中に纏わりついていた昼下がり
少し横になって、蒸し暑い部屋で
あたらしい小説を読んでいた。

ほんとうは ちかづかないでおこうと
思っていたのだけれど
さいしょの1行を読んでいたら
もう引きずり込まれていた。

小説の舞台とおなじ街に暮らしたことはないのに、
そこに登場するおばあさんやおじいさんは
まるで、わたしのよく知っていたおばあちゃんや
おじいちゃんだった。

贈り物の包み紙の扱い方や、道具を大切に磨いているときの
祖父母のなにげない仕種が瞬間に引き出されてきて
あぁこんなところでおばあちゃんとおじいちゃんは
いきいきと生きていたのかと見まがうような。

夏休み、暑いから熱をだすなんてことも
なかった子供時代、祖父の家の廊下や
踊り場を通って、各部屋を弟と探検して
はしゃぎまわっていた頃が、
ふいに思いだされてきた。

たぶんじりじりと何処かの樹の中で蝉が鳴いて。
おとなたちは今年も暑いねなんて
言い合って団扇を仰いだりすいかを食べたり
していたかもしれないずっとむかしの夏を
彼らに横に座ってもらいながら、読みふけっていた。

物語のなかに棲んでいることばが
ひとつの絵になって動いてはわたしの
どこかをちくっと刺したり、掠めたり。
気がつくと、現実の世界にとけていくときの
至福感にとりかこまれている。

でもたしかにその何ページめかの辺りまでわたしは
素面だったのだ。
こんな感じで小説の中の時間は
進んでいくんだろうなぁと、正気でたかをくくっていたら
とつぜん、通り過ぎようとしていたことばに
ぜんぶもっていかれてしまった。

そこには理路整然とした文章が綴られていて
どこにも感傷の欠片もなかった。

少年だった主人公が8月の浜辺にいる、
家族みんなで。
彼はそこに砂山をつくって、
種を隠しておいたのだ。
水密桃の種を。

そんなエピソードがぽつんと綴られていた箇所で
なにかを堪えたいような感情がとつぜんに生まれた。
そしてそれはわたしのなかで
ちょっとだけなみだっぽくなっていったのだ。

あぁ、なみだだと気づいた時はもう遅かった。

横たわっているときに流れ落ちるなみだは
どうしてこうとめどなく
滴りつづけるんだろうと思いつつ。

あせかきべそかきってこういうことなんだと
納得しつつ。

もうつぎはだまされないぞと
こどもっぽいふりをしながら、
あぁわたしはたったいま物語のそとに
放り出されたところなんだなと思ったら
なんとなくつまらないやら、
でももどってこれてよかったと安心しながらも
またあの小説のなかの時間に
あともどりしたいようなそんな
らせんめいた8月のとある午後でした。    

       
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