その一一四

 

 







 






 




















  夜の種 いつかどこかへ 弾けて逃げて 

このあいだ、すこしだけ薄曇りの日。
あと何日かで終わってしまうというので
あわててゴッホ展に行った。

美術館の前は九十九折りになった
人の列であふれかえっていて。

70分待ちの行列のおおぜいのなかの
ひと組になってならびながら
彼の絵を待っている人たちの
熱気にあらためて驚いていた。

ゴッホを好きな人たちが
こんなにたくさんいることが
不思議になってきて、
ついでになんでそんなに好きなんだろうわたしはって
思いながら、狂気だとかゴーギャンだとか
ひまわりだとかが絵や単語になって頭を
駆け巡りながら少しずつ入り口へと近づいてゆくのを
楽しみに待っていた。

いつかちゃんと見てみたいと願っていた
「夜のカフェテラス」。

思っていたよりもひさしとガス灯の
ほんとうの黄色はとてもトーンを
落としたものだという発見があって、
映像でみていた時は、鮮やかすぎるほどの
夜だったのに、その日みた「夜のカフェテラス」は
にぎやかすぎず、しずみすぎず
なんていうか均衡のとれた夜が醸し出されてるなぁ
なんておもいながら、人だかりの中で
じっと見入っていた。

夜空は濃紺で、ずっと遠くにある星空に
吸い込まれそうな夜の色をしていた。

美術館を出るともう6時を廻っていて
降りそうで降らない空の色とさっき見ていた
渦巻き状にうねる糸杉と重ねてみたりしながら、
なんとなくほっとしていた。

いつもわたしはこうして生身のものと
出会うと、そこからいちはやく逃れたくて
出口を探してしまう。

いちまいの絵と一対一で向かいあうって
ほんとうのところむずかしいんだなぁと。
ほんものが眼の前にあるときよりも
それをほわっと思いがけない場所で
思いがけない人と逢ったりしている時に
思いだしているほうがその絵を感じてる
のかもしれない。

思いとか感情にいつも時差があるから
リアルタイムで喜んだり悲しんだりすることが
ものすごく憧れなのだということにも
気づいてしまった一夜だった。
       
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