その一二二

 

 






 






 

















 

アトリエの 夜の水槽 酸素を待って

この間、おそろしいぐらい混みあっている
エジプト展から夜、帰ってきたら
いつのまにか電話が故障していた。

何も気づかない私はお客さまセンターのような
ところに掛けてみようと思って受話器を取った。
耳に受ける気配がなんかちがった。

でも気のせいだろうなって思って、
また別件で同じ事務的な電話をしようと
思ったらそこも、なんか耳当たりが悪いと云うか
とにかく、なんかちがってた。

つー音さえでていない。

フックをつよくつよく押してぱっと
素早く離してみても
しーんとしている耳の中。

なんかおもちゃの電話をはじめて手にした時に
これはほんとうにおもちゃなんだと
あぜんとした時に似ていた。

そしてだれともいかなるものとも
つながってない感っていうのはこんなに
静かなものなのかと感心してしまったのだ。

わたしはこの静かな感じをいつだったかも
経験したことを思いだしていた。

ある冬の終わりあたり、喋り過ぎたわたしは
ふいに口を噤み隣で話を黙って聞いてくれている
その人の横顔を見ていた。

なんて静かなんだろうって思いながら。

おかしく思われてしまうかもしれないけれど
勇気を持って書きます。
その人の身体がそこにあってその周りを包む空気が
目に見えなくてもそこら辺りにあって、
その空気とその身体の輪郭が溶けてしまってるような
感覚をはじめて味わっていました。
人の輪郭ってあるんだやっぱり・・・と、
そんな空気との滲み方が尋常じゃないと思ったら
好きになってしまっていたのです。

あの時の、静謐さをしっかり忘れたと
思っていたのに
この間の電話の故障でうっかり
思いだしてしまいました。

あの冬の日、わたしはその人となにもかも
つながっていなかったんだなぁと思いました。

たぶん、その人はその人にしかみえていない
なにかとだけしっかり通じていたのかもしれないと。

がらんどうでした。

冬の日も電話の故障した日も。

でもこうしてあの冬の日とか電話がいかれちゃった日
のことを書いている時だけは
静かな人やあの日のしーんとした電話と
ちょっとだけつながっている気がしています。

どこからが失うってことのはじまりなのかと
よぎってはとけてゆく午後でした。 。

       
TOP