その一三八

 

 





 







 









 

あいさつの 語尾は青くて 見上げて染まる 

近頃なんとなく耳が大阪弁のうねっている
あのイントネーションを欲していることに気づく。
だからふいに聞こえて来た関西のニュアンスは
いなくなった人を思うように聞いてしまう。

この間みた「きょうの出来事」という映画は
どっちかというと京都よりの言葉にちかかったけれど
あのゆるゆるした感じが耳にここちよくって
さいごまで一気に見た。
見たというより聞き倒したって感じだった。

生まれたのは九州のせいか南の方言にも
吸い寄せられてしまう。
耳と云うかからだぜんぶがどこかへ帰って云って
玄関先でただいまをいってる安堵感に包まれるのだ。
あのばってんやよかよかとか、しっとっとですかなどの
音を聞いていると。

鹿児島は祖父母の住んで居た町だったので
あの場所の言葉の独特な音階を思い掛けなく耳にすると
ふっとむかし遊びにいった彼等の家が浮かんでくる。

こないだふと雑踏を忙しそうに歩くおとなの人たちの
それぞれにもあったはずの幼い頃を思って
妙な気持ちになっていた。
こどもの口調で喋ってた日々。
語尾にやんとかちゃうちゃうとか知らんとか
意識せずに口にしていた日々が私にも甦ってきた。

そして父や母にもそしていなくなってしまった
祖父母にも小さい頃があったんだなぁと思うと
愛おしさと同じぐらいせつなさも迫ってくる。
じぶんの背中からうしろに流れていった
時間みたいなことを思って
ぎゅっとしめつけられてしまう。

はじめて逢った人とかが
なんとなく喋ってくれる幼い頃の日々の話を聞くと
その人のからだのまわりにちいさくて温いふわりとした
みえない膜みたいなものにくるまれているように
感じることがある。
大人の人であるその人の輪郭がほころぶ瞬間に
たちあってるみたいで
ささやかにうれしくなる。

いつだったかお仕事をごいっしょした方が
生まれ育ったニュアンスで
彼女はげんきにしとるかのうっておっしゃっていたって
人づてに聞いて、いいなぁその体温のあることばって
思ったりしていたのでした。

       
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