その一四四

 

 






 








 








 

世の中の だれかがだれかに つぶらになって 

まるで梅雨が一足も二足もはやくやって
きてしまったみたいな雨続きの五月のせいで
庭がほったらかしになっていたので
落葉を整理していた。

あっちのプランターをこっちにしたり、
地植えするために土を掘ったりの作業を
何時間か続けていたとき。
ふと視線を感じた。
それも垣根越しのとても低いアングルで。

その低さがあんまりにも怖かったのに
怖いものみたさの衝動で
ふと振り向くと。

視線の正体はよく近所をふらりふらりと
歩いている黒猫だった。

彼か彼女か定かじゃないけれど
見知った黒猫はじっと私の目を見て
微動だにしない。

作業してた土まみれのグローブのまんまわたしは
そのつぶらな瞳に釘付けになっていた。

なにかを見た途端になんかどこかのスイッチが
入ってしまったみたいに
むかし暮らしてた黒猫の名で呼んでいた。

呼ぶとすこしだけその黒猫は身体をよじった。
そのまま何歩か歩を進めてそれでも
だるまさんころんだみたいに徐に後ろを振り返って
背中越しのような姿で私をみながらすたすたと
垣根のむこうに消えていってしまった。

呼んでいるとき、気持ちはまぎれもなく我が家の黒猫に
対してのそれだったことにあとから気づいて
ふしぎな思いにしばらく駆られてた。

うまくいえないけれど黒猫を呼び掛けた刹那
あたりの空気の色が変わった感じがした。

そしてあらためて名前を呼ぶって行為ってなんだろうと
思いながらひとつだけ体感したのは、
たぶん呼ばれる方じゃなくって
呼ぶ方によろこびのある行為なのかもしれないと、
そのことに気づかされていた。

黒猫といっしょにふたり暮しをはじめたときも
誰も聞いていないのにはずかしくて
友達がつけてくれたばっかりの名前をいくらたっても
呼べなかったこと思い出しながら。

やっと呼べるようになったんだねと
訪ねてくれた人に云われてあぁいつのまにか
呼んでたんだと、こそばゆくなったりした
余計なことまで甦ってきて。

垣根越しの黒猫がぽっかりあいた唯一の場所へ
ちがう風を吹かせてくれたみたいでうれしかった。

想いが募ると名前を呼びたくなるんだなぁと。
黒猫にふいをつかれてどぎまぎした幸福な一瞬。
呼ばれた彼か彼女もそういう意味では充分に
ふいをつかれた出来事だったんだろうけど。

       
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