その一四八

 

 




 







 





 

目をつむる 浮かぶ残像 虹のつぶつぶ

私の住んでる辺りも梅雨明け宣言がされた。
今まで辻堂まで書道を習いに行っていて
七月からは江ノ島へと移転した。

辻堂の教室は築百年ほどの日本家屋だったので
廊下を歩く度にきしきしと音がした。
ふすまの後ろを先生が歩く音
ちっちゃな男の子が走り抜けて角で急ブレーキを
かけるときのきゅきゅっという音。
畳を摩る足音も、半紙が墨を吸い込むときの
いちばんはじめのこすれる音も
低く流れているチェットベイカーの声も
なんかいろんな音に囲まれていたような気がする。

昔その家はおばあさんが住まわれていたらしい。
床の間のあたりや違い棚のふぜいや
欄間の透かしを見て居るだけで、どこかに帰ってきた
安堵の気持ちがしてくる、そんな場所だった。

百日紅や楓、桜などの木々はてっぺんの
あたりで枝が重なり合っていて、地面にちょうどいい
木陰をつくってくれていた。

このお庭もなくなっちゃうのは寂しいねと
教室のみんなもこの家屋がなくなってしまうことに
思いを馳せることが多くなって、稽古の終わった時間が
過ぎてもいつまでも庭をみんなで眺めたりしていた。

その時真っ黒い蝶が1羽やってきて庭をめぐっていた。
あっ、黒い蝶々とみんなが口々に声に出した時、
それにきづいたみたいに風の重力にまかされたまま
ふわりと飛び去っていた。

先生が云う。
ここがなくなるって決まってからあの黒い蝶がかならず
やってくるんだよ、ほらまたもどってきた。
もどってきたと思ったら私達のいるガラス窓をなんども
弾くようにつついてそしてまたなだらかな流線形の軌跡を
のこしながらどこかへと帰って居った。

みんなが笑ってる時に限って来るんだよね、ふしぎと。
たぶんおばあさんが逢いに来てるのかもねっ。
先生はさっきまでの話と地続きの感じでそう云った。
黒い蝶になったおばあさん。
他の人たちは知らないけれど私もその時おばあさんかも
しれないなって思っていた。
おばさんかもしれないと思った途端ふわっと
さっきの蝶みたく軽い気持ちになったのだ。
輪廻転生だとかそういう難しい話ではなくって
たぶんあれはあれの生まれ変わりかもしれないねって
誰かが云った時、なんの曇りも無くそうかもしれないって
思えることって、もしかしたらとっても
たいせつなことかもしれないと思う。

むずかしいことはほんとうにわからないけれど
案外日常ってそういうことの積み重なりなんだなって。
今も我が家に訪れる黒蝶を見ながらそんなことを思って居た。

梅雨明け宣言。
宣言したんだから梅雨明けなのだと思う気持ちと
少しばっかり似てるかなとか思いつつ。

       
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