その一四九

 

 




 




 







 

とぎれては いませんかと 花火の夜に

夏になると生きている人と死んでしまった人が
おなじぐらいの色の濃さでもって
存在しているような気がしてくる。

8月はとりわけそんな感じがする。

今年のいつごろだったか突然亡くなられた
演出家だった人の本をひさしぶりに開いて
みたくなっていた。

手帳から切り抜きがでてきた。
その方がなくなったことへの追悼文が
掲載されていた新聞だった。
上の方の天の辺りの空白をみると
ちょうど何年とか月日が印字されている
ところがぽっかり空いていた。

知り合いだったわけでもないので
いまさら彼の死んだ日を確認しなくても
いいのだけれど、なんとなく春だったのか
それとも冬の終わりだったのかを
知りたかったのだ。

唐突に彼の顔がテレビの画面に映し出された時
そのアナウンサーの言葉を聞く前にあああの方は
死んじゃったんだと直感した。

そして突然だったのでびっくりは
したのだけれど、その時わたしの頭を巡って
いたのは<やっぱり>という言葉だった。

不謹慎だと思いつつ、じぶんが深くそう感じて
いた理由を探った。
彼の作るテレビドラマの中にはいっつも
死の匂いがこぼれおちていて
すくってもすくっても指の間から
そんな気配がまつわりついていた。

そして彼のエッセイや小説の中にもそれは
漂っていた。

<死のある風景>という副題のついたエッセイを
読み返している。
ここにはエッセイとビジュアルで、私達の身近にある
死のシーンが綴られている。
その中に童話の絵本についての文章がある。
ロシアのユーリア・グコーヴァという童画家の
絵本の中には、心踊るものだけでなく死の怖さが
ちゃんと潜んでいるのだと。
大人になって童話を読み返すと云うことは
子供の頃に帰るのではなく、子供から遥か離れた
国を思うようなものではないかと。
そしてそれは<来たところ>ではなく<行くところ>の
景色を童話の中にみているのだと。

来たところと行くところ。
その文章に出会った時、そういう視線で物語を追って
いるんだなとまず初めに彼の目に出会い
その後それは彼だけの視線ではなくていつのまにか
読者である私の視線へと変わっている。

彼だけが行くところではなくて私達もやがて行くところ。
そんなあたりまえのことに気づかされてあぁと思うのだ。

ただしい箱の中にただしい小物がおさめられている
様子を目にした時のように。

今夜、窓の外では江ノ島花火の音がいつもよりも
重く響いている。
花火と久世さんのことを思ってこんな拙い文章を
綴っていると、ひとつ花火が夜空に開く音を聞く度に
どこかに楔を打たれている気がしてきてしかたない。

       
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