その一六二

 

 






 







 







 

右耳に そそがれてゆく 一月の声

ふしぎってことばが大好きで。
ふしぎっていつもだれかだとかなにかだとか
じぶん以外のものへと注がれている気がする。

だれかとかなにかとかの間にだたよっている
時間とか空気のことをあとで思い出す時
あぁあの時のあれはふしぎのりんかくを持ってたなって
感じる時があって。

たいていそういうときはその向けられた視線の先に
あるものをこよなくすきになりはじめている
わけなのですが。

この間ちらっと絵本のページの中に
「 いつもどこかで何かがおこり、胸にしみることが
おこり、胸はその出来事のかたちに透けてしまう」って
ことばに出会って、あぁほんとにそうだなって
すとんと腑に落ちたまんましゃがんでしまいたくなった。

セロファンを透かしてみる世界のように
胸のかたちは出来事に寄り添うように透けていって
しまうものなのかもしれない。

年を重ねるとなにかがふりつもったり積み重なったり
するものだと思っていたけれど、どんどん人は
いちまいいちまいなにかその人だけの独自の体験を
からだに染みわたらせながら、なじませ、とかしてゆく。

いま私の机の横には、備前玉と名付けられた球状の
陶製品のものが置かれている。
ピンポン玉よりちいさいぐらいのそれは、まん中に
炎みたいな柿色がにじみ出ている。

会話の途中の接続詞みたいなさりげなさで
大切な方にいただいたものだった。
水をアルカリ性にする性質があるらしく
お米を炊く時とかお酒をお燗する時に
いれてくださいと説明書に記されていた。

お守りのように袋の中にしまってあっていまはまだ
つかっていないけれど。
いつか備前玉でお米を炊いたりお酒の中に入れたりするとき
その球状の中のなにかがすっとしらないあいだに水の中に
とけだしてゆくたゆたう時間を思ってみたりした。
おいしくなってるって感じた刹那、いただいた時の会話の
うれしかった思いのかたちのまま胸の中でちょっと
透けてゆく感じを味わうんだろうなとあの絵本の中の
ことばがすぐそばにやってきているような夜でした。

       
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