その一六四

 

 




 







 








 

迷ってる 林のなかで 出会うまなこは

すっごくきれいな瞳をしたひとを見たって
いうからそれはてっきり女の人かと思ってたら
鹿の目だったらしい。

森の中で迷って果てに見たものが
鹿の目なんだって思ったらそれはそれで
すてきな出会いなのかもしれないと
そんなどうでもいいようなことをつらつらと
読んでいた本のページから顔をあげて
バスの車窓を見た。

バスの車窓に映るまぶしい光のせいで
遊行寺の林が主人公が迷っていたらしい
森の中にみえてきて妙な感じを味わっていた。

バスからみる景色ってどこかへ行く時だったら
ちょっと緊張したスクエアな感じで見えたりするし
もしそれが帰り道の車中だったら
ちょっと輪郭がゆるんだりして、昼間見えていたものが
見えないそんな大人っぽいやさしさを
感じたりすることがある。

今日わたしが目にしたいろんな視線を点で
つないでいったらどんな形になるんだろうって思った刹那
そんなことより好きな人のみている風景を
鉛筆で線でつなぐようにして見てみたいってふと思ったりした。

この間あんまりやる気がでなかったので映画見てからに
しようと「マイ・ルーム」っていう
ディカプリオやダイアン・キートンが出ていた映画を見た。
その中でささやかなんだけどとても印象的なシーンを
バスの車窓に映る温かくまぶしい光りを感じていたら
ふと思い出してしまった。

老いてしまった父を介護しながらずっと共に暮らしてきた
娘ダイアン・キートンが父との日常のあれこれが
一息ついたころを見計らっていつもする遊びがあった。

父がくつろいでいるベッドの横に腰かけながら
彼女は小さな鏡を持って、天井や壁にかざして光が戯れて
ゆくのを父の子供みたいなきらきらした視線をゆっくり
目で追いながら楽しむ。

さっきまで真っ白で無機質だった天井や壁は
ありとあらゆる側にある光を吸収して、
ジェリービーンズをちりばめたみたいな色を映し出す。

ちいさなどこにでもある鏡がいつもの部屋を
夢のような光で満たしてゆくそんなシーン。

その光をみつめながら娘は静かな口調で
オーロラみたいねって父に話しかける。
たったそれだけのシーンなのにひどく私の脳裏に
焼きついていた。

いまがうつつでいまもゆめで。

父のことを介護しながらも自分が重い病に
冒されていることは父に隠しながら日々を
明るさで包みながらこなしてゆく彼女。
水面がゆれるように光が舞う景色をまといながら
ふたりははじめて光を見るようにながめてる。

もしかしたら父は目の中に映った一瞬の光の景色を
すぐに忘れてしまうかもしれないけれど、
おなじものを見ている時間、
うまくいえないけれどふたりがたしかにそこにいた時間って
ほんとうに大事なものなのかも知れないって思った。

ちっちゃな子供がいつかしたことのある
他愛無いあの遊びが奇跡のような光となって
まるでふたりを見守り続けているみたいだった。
あのシーンを思い出すとそんなたいせつな時間が
いまも残像のようにむねのずっと奥の方で
ひろがっているような気になる。

       
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