その一六九

 

 




 







 











 

あの土に とじこめたもの ずきずき想う

バス停にいても道ですれちがってもなのだけれど
よく、犬にふりかえられる。

飼い主のおねえさんがさっそうとリードを
引っ張ってるのに、その犬はわたしをじっとみて
顔を横に向けて足を踏ん張ったまま
動かなくなったりする。

この間なんかなんとなく視線を感じるなって思ったら
最寄りのバス停のすこし上がガードレールに
なっているところから、ちっちゃなブルドッグが
わざわざ顔を出してわたしをみつめていた。

いまみつめていたとちょっと背伸びして書きましたが
ほんとうのところその視線は、不憫そうな表情で
まるで労っているかのようにわたしを伺っている。

かたまってしまった犬の彫刻のように凝視して
そして次に彼らはきまって腑に落ちないという
顔をして、首をゆらしながら去ってゆく。

その流れてゆく視線がわたしには気になって
仕方ない。体全体に問いを残したまま
立ち去らないでほしい。
関西の人といっしょなら犬につっこみたいぐらいの
気持ちになる。

ちいさいころから犬に心配されてるわたしは
人生あと何年あるのかしらと不安になる
こんな年頃になってもおんなじ目にあっている。

ずっと昔、古い新聞紙を十字にしてヒモでしばって
いたのを見ていた人が、真剣になると犬がおしっこしてる
時の顔に似てるんやなって云われてから、
ほんの少しの間とらうまになりそれ以来私のからだの
どっかに犬がちょっと間借りしてるようなそんな感じです。

ここまで書いてほんとは迷ってしまったので
好きな雑誌を本棚から取り出してきた。
ぶどうとかりんごとか洋梨が色鉛筆で描いてある表紙。
パッと開いたとあるページの中に出合い頭みたいに
べろを出して笑ったような顔をして窓の外から中を
のぞいている犬の写真が出ていた。

カナダの作家が飼っているらしいその犬は、散歩待ちして
いるところらしかった。
息遣いまで聞こえてきそうな表情。

インタビュー記事の中に彼の祖先が喋っていた言葉を
彼の代でそれが英語にとってかわったことを嘆いていた
彼のおじいさんの言葉が載っていた。
きみは犬みたいなやつだなって。

犬は人のことばを理解してそれに基づいて行動することが
あるけれど(君は祖先の言葉を)喋れないから、と。

それにしても犬が喋れなくてよかったと思う。
あのなみなみならぬ視線を思い出すとふりむきざまに、
なんかとてつもないことば、それも暴言の類いではなくて、
耳にした途端に、おもいがけなくこっちが
情けなくなってしまうようなそんな種類のことばを
ひとこと吐かれそうで。

共にくらしたこともないしこの先もきっとないに違いないと
予感はするけれど、いつも永遠の距離感で彼等はいる。
そして出合い頭するにつけわたしの身体のなかのどっかに
いるらしい犬のことをひんやりと思い出してしまう。

       
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