その一七三

 

 




 







 













 

揺れる蝶 まなこで辿る 熱はなつちち

聞き上手の人って、なんとなく
大きな耳をもっている人っていう
イメージがある。

あと大きな肉厚のてのひら。
しいていうならば、お父さんというパーツを
担ってる人が携えているてのひら。

小学生の一年生頃。父にさんざん叱られてなりゆきで
散歩についていくことになった後など、父はそっと
黙ったまま私の掌を握ってくることがあった。
その時の感触は今でも覚えていて、あの体温や指が
届かないくらいの手の大きさが、記憶の中にいつまでも
残ってる。

決して父の事が大好きだったわけでもなかった。いまひとつ
付き合方というか声の掛け方というかそういう入り口の
ところでゆきつもどりつしているような関係だったのに、
ふしぎな響き方をする音叉みたいに私の掌を経由してゆく
その感覚だけが残ってしまったみたいなのだ。

理不尽にみえる父の怒りとその掌のあたたかさは
別なものであるかのように、私はまっすぐ前を向いて
違う人と手を繋いでいることを空想していた。

そんなことをしていて、時には目を瞑って歩くものだから
ついつい道の端っこを歩き過ぎていきなり溝におっこちて、
またもや父を沸騰点に到らせてしまうのだけれど。

この間父から夕方携帯に電話がかかってきた。
大丈夫だよ元気だよって云うのに、終始、私の身体の
心配をテーマに20分ばかり話し続けていた。
聞かれれば答えないわけにはいかないわけで
なんとなく不調なところをぽつぽつと投げかけたら
それをルアーに、私の身体はずぶぬれのまま父に
するすると釣られていった。
野菜を朝昼晩規則正しくたくさん食べなさいとか、
夜更かしせずによく眠りなさいとか、
ドリフのエンディングのようにメッセージして
電話を切った。
父は自分のことも近況めいたものも告げず私の
身体の心配だけを訊ねていたことに、携帯を
腰だけエプロンのポケットにしまってから気づいた。
昔はそんな父親が想像できなかったのであらためて父と私の
関係はゆるやかな坂道をころがりながらゆきつくところに
ゆきつこうとしているんだなとそんな感じがしていた。

昔、クリスマスの日にオーバーザレインボーの曲が
入ったCDをくれたずっと年上の先生のような人は、
とっても聞き上手な人だった。
だじゃれ〜好きで、映画も好きで、掌だけでなくて
笑い声も魚河岸に勤めてる人たちのように大きくて
肩や背中も大草原の小さな家のパパのようでした。

勝手な持論による聞き上手な人は耳が大きい説が
その方にあてはまるかどうかわからないのが
いまとなってはほんのすこし惜しいです。
つまり何かちょっと苦しいことだとか、よくわからなくて
躊躇してることだとかを包みこむようなそんな体温が
そばにいるだけで伝わってくるような感じがあったなぁと。
ぼんやりと綴っていたらひょんなことを思いだした。
そういえば父方の祖父も父もすっごいふくよかな耳の持ち主
だったことを。
祖父は死んでしまったけれど父の日のちょっと前に父の耳が
いつまでも健やかであることをちょっぴり願って。

       
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