その一九〇

 

 




 







 







 

てのひらに わけあうなにか ぽつりとおとす

ちかって聞くとなんだかわくわくする。
階段をのぼってのぼってお日さまの近くへって
いうよりも階段をおそるおそるくだってくだって
湿ったひんやりとした空気がただよう地下に
こころひかれてしまう。

じめじめしたところはどきどきする。
あらゆる風にさらされない通気のなさみたいなもののもつ
風情に、とことことことついていってしまいたくなる。

いつ頃からこんな指向なのかはわからないけれど
大阪に居た頃は、夜になると好きな人とふたりで
そんなお店ばかりを狙って、キタやミナミの地下を
楽しんで巡っていた。

地続きの時間の延長線上にある空間じゃなくて
ちょっと次元のちがった錯覚に陥りそうなそんな地下の
せかいに佇んでいるお店ばかりを贔屓してしまう。
あの見知らぬ階段をくだるところから、そのお店全体への
アプローチは始まっているから、扉をあける前に
どきどきが加速していくのがわかる。

先日、ある方にフランスの地下の話を聞いた。
旅番組で紹介されていたその町では地下を探検できるように
なっているらしく階段をくだってゆくと、
地下で見知らぬ人に逢うこともしばしばなのだとか。

地下で見知らぬ誰かとすれちがうって、どんな感じなんだろうと
頭の中で想像していただけなのでよくわからないけれど
地下好きなわたしとしては、パリの地下探検してみたくて
物理的にいろんなことが許されれば行きたいなと思った。

それでその人いわく、地下で人にばったり出逢うとね
自分のもっているものを何でもいいからわけあうっていうのが
マナーなんだって。
で、そこに映っていた案内役の男の人と探検している女の人は
それぞれあかり(ランプみたいなもの)と
サンドイッチみたいなパンをわけあってたんだよって
おっしゃっていた。
その話なんかいいなって思った。

じぶんのもっているものを、わけあうっていう精神が地下という
閉ざされた闇に近い場所で、静かに放たれて受け止められてることに、
ひそやかなまっとうさを感じた。

ふさわしい場所に注がれている心根みたいなものが伝わってきて
ふたたびいいなって思う。

ふと大阪のことを思いだしていた。たとえばわたしは地下にある
お気に入りの店だったピアノバーのあの空間で、その人となにを
わけあっていたんだろうと。
広告の仕事のことなど、その人から教えられたり叱られたりする
ことが多くて、とにかく吸収することに夢中になっていた日々だった。
たいせつななにかをわけてもらっていた時間の方が断然多かったと
つくづく思う。

どこか見知らぬ地下の中に、みえないシーソーが一台あって
その右端の板と左端の板がゆれていて、やがて左端の板が地下の底に
つきそうになる映像が浮かぶ。
左板に乗ってるのはTさんがわけてくれた時間や思いや言葉で
右板はわたしのささやかなもちものだったかもしれない。


       
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