その一九三

 

 






 







 







 

ふいうちの すてっぷのまま みちなきみちへ

声にはださないけれど小春日和だなってひしひしと
胸の中が、あたたかい気持ちでいっぱいになった
十月のとある日曜日。
母の好きなフランシスコ・カナロ楽団を聞きに、
ふたりでみなとみらいホールまで出かける。

客席で耳を傾けている人たちも、ステージの上で
演奏するピアノやバンドネオンの奏者たちも
みな年を重ねている人たちばかりだった。

でもその人たちが放つエネルギーがなんだか
華やいでいる。
華やぐってことばはたぶん、ちゃんと年を積み重ねた
人にふさわしいのかもしれないと思いつつ耳を傾ける。

耳になじんだ曲が続くせいか、昔、母が聴いて居た
レコード盤が透明なルーフの下でぐるぐる回ってゆく
絵が思い浮かぶ。
しあわせであることにもまだ気づいていなかった幼かった
頃のじぶんの冬の厚手のジャンスカのデザインまで
浮かんできてちょっと所在なげなこころもちになる。

一部がおわってホールを出ると、大きなガラス窓から
明るい陽射しが、フロアいっぱいにこぼれていた。

二部がはじまって間もなく、ステージの上では男性の
ダンサーがそれぞれ時差で登場してくる。
コンビであるはずの女性の姿は見えないままだった。

男の人のひとりは渋みがかった年配の方で、
もうひとりは四十代ぐらいにみえる、ふたりの
ダンサーがステップを踏む。

たしかに彼等は相手のいないひとりひとりなのだけれど
踊りのスタイルは彼女たちがまるでそばに寄り添って
いるかのように手や腕をかき抱くフォームを形作って。

シャドーダンスってことばが浮かぶ。
そこにいるのにいない彼女達を描くようにちからづよさの
向こうがわにせつなさを滲ませながら踊りだす。
床を弾く踵の音、誘うようにすすむ高く挙げた足下。
そのパフォーマンスを見て居た時、彼等はシンプルで
美しいなぁと感じた。

どちらかというと、彼女達の肉体がそこにないことのほうが
パートナーである彼女をより浮かび上がらせているようにみえた。
こころに訴えかけてくる重さみたいなものを客席で受け止めながら、
ひそかにじんとしていた。

母にあのシーンがいちばんすきだったって告げたら、彼女も
そうだったらしくて、昔夢中になってやめられないぐらい踊って
いた頃の話をいくつか聞かせてくれた。
余韻を残した耳のまま、みなとみらいの建物の中をぶらりと
見たあと外にでると、潮風がふわっと吹いてきた。

いままで風にさらされていなかった身体がとても新鮮な感じで
心地いい。

ずっと忘れられない新聞に紹介されていた詩を思いだす。
体をまるごとつつんでしまうように風が吹く時、それは
古い物語があなたに吹いてきたのだと思えばいい。
そんな、詩だった。

読んだ時から古い物語ってところが気になっていたのだけれど
その時私達に吹いて居た風は、いまじゃなくてつい何時間か前に
耳にしていたタンゴの調べと共にやってきたみたいで、
なつかしい場所にずるずると引き込まれそうな気分になる。

みなとみらいのどことなくみらいが未来じゃなくて
そばにあるみらいを描いているような駅。
小さい頃は未来は未来で、ずっと遠くにあった気がしていた。
未来は決してみらいじゃなかった頃はもうどこにもないけれど。
今日のステージの上や客席の隣にすわっていたみずしらずの
老婦人と娘さんも、よく考えると私のいつかやってくるかもしれない
みらいなんだなって思った。

夜になって日記のページを開く。
小春日和って、いい響きだと思いながらなにげなく電子辞書で
この言葉を探ってみる。
さいごの方に別の名で、<老婦人の夏>とも云うと書いてあって
そのネーミングと今日のできごとがすっぽり重なるようで
うれしいやらせつなくなるやらの、日曜だった。

       
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