その二〇八

 

 




 







 






 

ひと雫 つみつみつみが そらそらそらへ

あした雨が降ります、降るかも知れませんって
いうアナウンスを聞くと、すこし落ちつく。
そうかあすはしずかに頑張ればいいのだなと。
しずかな分野を頑張りましょうという気持ちに
なったりする。

雨の音は匂いをつれてくるものだけれど、
近頃夢中になって早くいろんな雑事を片付けて
いちはやくページをめくりたくなってる小説は、
とくべつの嗅覚を持って生まれてきた男の人の一代記。

水と石や炭の匂いにまじってサルビアやビール、
乾燥した藁や涙のにおいも嗅ぎ分けるのに、
彼じしんはいっさいなんの匂いも発しない。
おそろしい嗅覚を携えたまま、彼は匂いをもたない
という設定に、ぐっとひとつかみにされてしまった。

目や耳や鼻や口の器官の中でいちばん不得手というか、
じしんのない分野が、匂いかなと思う。
なにかを花の匂いに例えられる人や、
海の匂いを遠くにいても察知する人や、
とても感じのいい香りを身につけている人に出逢うと
それがおとこのひとでもおんなのひとでも、
すてきだなって思いながらもすこしかなわないなと
降参してしまう。

ずいぶん昔にベストセラーになって今も人気の
この1冊の本をずっとしまったままだったのは、
たぶん憧れとあとなにかみえないものに対して
気押されてしまったせいだったのかも
しれないと今頃気がついた。

記憶の中に残る匂い、その匂いがとつぜん立ち現われて
きたときに、あぁこの匂い!って思える
再生できるじしんがまるっきりないので、そういう意味では
二度と再会できないというか、再会しているかもしれないのに
再会を認識できないものがわたしにとっての
匂いなのかもしれない。

ページをめくっていると、世の中に存在するモノや
生き物達はみんなこんなふうになにかしらの匂いを
発しているものなのだと思うと、
ふしぎなきもちにかられてしまう。

彼等はちいさな言葉を放つように匂いを放つ。
たまにそれをキャッチする人がいることを思うと
それは静かではなくて、とてもにぎやかな交流が
なされているのだなと。

いまはその男のひとがひとつ罪をおかしてしまった
あとの世界が描かれている。
読んでいて、その罪が大きな重たい罪に思えなく
なっているじぶんに気づく。
鼻が毒されてしまう麻酔のような不確かで確かな嗅いが
ずっとずっとページのすみっこにまで漂っている。

       
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