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き
り
も
な
く
じ
ゃ
っ
ぢ
さ
れ
て
る
ふ
た
し
か
な
朝
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墨こぼす こぼれた形 ひざを抱えて
はじめはこの墨文字のたたずまいがすきだなと思った。
でたらめにならんだようなその配置と字の
かたちがにくめないかわいらしさを醸し出してて、
誰の書いた書なんだろうって思ってしばらくみてて、
横の見出しを見て、まったくの錯覚だったことに気づいた。
それは鴨川にいるオオサンショウウオの幼虫が
水の容器の中で泳いでいる様子を俯瞰した
アングルで撮影された写真だった。
新聞の見出しも何も目にしていなかった、
まだ頭のぼんやりとしていた朝、ついその
白と黒の世界が、墨文字に見えてしまったのだ。
錯覚っていうあれです。
ときどき日々が錯覚だらけで成り立っていたら
いいのにって思ったりする。
いっしょうけんめいうそをついたり、つかれたり、
どこからかなにかが運ばれる過程で、すこしずつ形が
変容してしまって、ほんとのことはほんの微量だけ
まぎれてるような、そんな日々。
まちがえたことにあらためて驚いて、ちょっと
きもちが華やいだり、楽しげな風が吹いていると
いいなと思う。
そんな気持ちだったある日、新聞の本の紹介の
ページでふいをつかれたような書に出会った。
たった九文字なのに、胸にささってきた。
ほんとうにどうしようもなく。
<なぜ生まれてきたの>
たっぷりと筆にふくんだ墨がさいごの<の>の
ところではかすれかすれになってる。書家の
息づかいがそこで途切れたような文字の形に、
うちぬかれる思いがした。
哲学の歴史という書籍の広告の下に揮毫されたこの書は
誰の字なんだろうと思って落款の下あたりをみると、
いつも気になっていた柿沼康二氏の書だった。
彼の作品に逢うときはいつも出会い頭なので
いつのまにか気持ちが持って行かれていることじたいに
気づかないまますきになっていて、たぶんわたしは
だらしなく見蕩れている。
息をすこしだけとめてる感じで見ていたせつな、
ふっとこらえきれなくなった吐息がもれてゆくような。
<なぜ生まれてきたの>
ちいさかった頃の声がずっと胸のなかのどこかに
隠れていておとなになったいまもどこかでおなじ問いを
繰り返していることに気づかされる、あらゆる道の
はじまりを予感させるそんな作品だった。
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