その二二六

 

 




 





 














 

と、れいん れいんれいん 傘もささずに

甘いバナナの匂いが辺りに漂っている
雑踏を縫いながら歩いてる。
鼻腔をおいかけてくる、だらしなく
甘ったるい匂いと雑踏の殺伐さに
いつも戸惑ってしまう。

その日見た、田村能里子展のしずかな衝撃が
頭から離れない。
アジアをテーマにした壮大な壁画。
60メートルに渡るふすま絵に描かれていた、
朱い色彩が眼の奥の方に焼き付いたまま、
ずっと赤い残像を携えながら歩いていた。

岩肌でもあるし、土のいろでもある
茶色に朱をまぜたようなその色をもった
自然の中に、幾人かの女性たちが
作業の途中のような仕草でそこに佇んでる。

女性じしんも風景のいちぶであるかのように
感じられるその世界を目の当たりにしてわたしは
この風景のなかにずっと佇んでいたいような
気持ちに駆られていた。

たえまなく彼女達はけだるくて、でもその視線は
強い。あたりに紛れてしまうようなもろさは
感じられない。
なにかを思って、じぶんのなかでもかたちにならない
けれど確かに存在しているなにかをことばにしたくて
もどかしいときの視線のようだった。
たぶん彼女達はそのなにかをずっと口にはしないんじゃ
ないか・・・。
そんな風情でそこに在るように居る。

ことば以外のかたちと色で伝わるものが連綿とつづく
ふすま絵の前に立っていると、云えなかったことばが
ぐるぐるとめぐってるときの思いがそのまま投影されて、
じぶんの足下さえ赤茶けてしまっているかのように
錯覚する。

帰りの雑踏で、わたしはふいに立ち止まらずに歩き
続けている事が、しっくりじぶんにあてはまってない
感じがしてきて、歩みを止めたくなった。
まわりのスピードだけがけたたましく加速してじぶんが
置き去りになったようなそんな映像が重なってゆく。

うまく云えないけれどあのアジアの女性の
アンニュイさが、 身体のどこかに染み付いてしまった
みたいで、』雑踏にまぎれてもそれはとれなかった。
ふいに、帰りを急ぐ人達の足音を聞いていたら
わたしはどこからもはみだしてしまってるような
まるで20代頃に感じていた感情がめぐって来て
その感情に懐かしさを覚えながらもおろおろしていた。

そして。
行きに駅に降り立った時に感じていたまつわりつく
あの甘い香りのするものを、ひとくちだけほしいなって
あまえたきもちに少しだけすがりたくなっていた。

       
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