その二三二

 

 






 







 

















 

空耳を 聞かせてあげる 夜が明けるね

ちんとんしゃんって音色が聞こえると
なんだかそわそわする。
スタバで待ち合わせをしているときに
ふいにその音が聞こえた気がして、
ふりかえったり、入り口の向こう側に
眼をこらしたけれど、音が何処から聞こえて
きているのかわからなかった。

空耳だったのかもしれない。
無条件に耳が反応してしまったのだ、きっと。
花火の音だってそうだ。お腹の底にずんずんと
響くそれがどこかで聞こえたら、音の鳴る方へと
探しにゆきたくなる。
隣にいるひとをほっぽってでも。

ギャラリーがお休みだったので、ちかくの
ラウンジでビールとピザを食べながら
お話しているときも、あのちんとんしゃんは
やっぱり聞こえなくて、店内には軽く
クラッシクの曲が流れていた。

砂煙の江ノ島でさんざん風にあおられたせいか
身体が潮の香りにまみれたここちよい緩やかさの
まま家に帰ってから、家事を終えた夜中にみた
映像に引き込まれて行った。

京都の庭園を紹介する番組だった。
枯滝や枯山水の話。
石のあしらわれ方でそこに水が流れているように
ないものをあると感じる世界。

石についてそれほど興味を示したことはなかったのに、
そのナレーションに耳を傾けていると、
すっとじぶんのこころが元の位置へと
もどってゆくのを感じていた。

ここ何日かじぶんの記憶を辿りながら話したり
伝えたりということを続けて来たせいか、
うまく云えないけれど抱えていた思いが、
いつのまにかありったけ放たれていた。
そして、荷物の減ったこころのなかは、
すがすがしいぐらい風通しがよくなっていた。

そんな気持ちに石の話はすっーとしみ込むように
馴染んでゆく。
大小さまざまな横顔の石が、そこに表情をもって
レイアウトされている姿を見ていると、
ナレーションの声も手伝って、しずかな水の流れを
感じていた。
<自然のままの石を愛する日本人。
石に魂を与える。掘り出される時から石では
なくて、庭に据えられると友になる。>
そんな鈴木大拙の言葉も、いつもならちゃんと想像
できなかったはずなのにその日は、すんと腑に落ちた。

滝の音は聞こえなかったけど、せせらぎぐらいなら
耳の奥の方で聞こえる気がしてくる。
あるものをないって思うよりないものをあるって
感じるこころの方がずいぶんゆたかなんだなって
あ、わたしは日本に住む日本人なんだって
おかしいぐらいに気づかされた瞬間だった。

       
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