その二三八

 

 






 



 



















 

すっぽりと つつまれないで いまここにいて

横浜までセザンヌ展に行こうと
最寄りのバス停でまっていた晴れた日のこと。
斜めになったちいさな屋根の下から
すこしはみ出したあたりに、ひだまりが
あった。

冬の日差しとは思えないぐらい
スカートを温くしてくれる。
ひざが、ふくらはぎが、温かくなる。
寒いとなんだかふあんになるわたしにとって
その温かさはなんだかとくべつありがたくて
いつまでも影から一歩でて陽に照らされながら
バスを待っていた。

まだ二日ぐらいしか経っていないので
セザンヌ展についての感想はくっきりと
綴れないけれど。
ひたすら見たなって意識だけは残ってる。
1時間近く歩きながら、なんだか静物であれ
風景であれセザンヌの眼差しがときどき痛みを
つれてくるから気になって、佇んでしまう。
妻も、サント=ヴィクトワール山も、果実も
もう画布の上からもうどこにも動けない感じが
絵から痛いぐらいに伝わって来た。

おいしいご飯を頂いたあと浜風を感じながら、
桜木町までぶらぶら歩いて、電車にのって
家に戻ってからずいぶんとわたしはなんだか
わからないけれどさっきのセザンヌや彼を父と
慕ったさまざまな画家たちにずっとゆるいジャブを
受け続けていたのだと気づいた。
まなこがへなへなになってるみたいだったのだ。

ちがうものを見てニュートラルにしようと
録画したままそのままになっていた須賀敦子さんの
ドキュメンタリーを見ていた。
ローマのパンテオン。
ドーム型のその神殿の屋根のてっぺんには丸く穴が
あいていて昼になって太陽が真上にくると、
パンテオンのフロアにまるい「光の池」ができるのだと
エッセイのことばのままにナレーションが聞こえて来た。

みていたら、教会のフロアをめざして光の柱が空間を
貫いてまっしぐら真下に向かっておおきな池を
つくっていた。
すこしずつ人々がまるく穿たれたひかりにむかって
導かれるように歩みをすすめる。
その光の池の中心にいる人々は、両手をひろげて球体の
天井を仰ぎ光を浴びていた。

光や影を意識したことはないのに、そのシーンが
いつまでも自分の中に残像のように立ち止まる。
ひかりって、求めて得られるものでもなく
ふいに訪れてくれるものなのかもしれないなんて
思いつつ。

       
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