その二四一

 

 




 





 




















 

かしゃりと 夜のスイッチ 灯したくなる

はじまりもまんなかあたりのことも
あやふやだというのにわたしは
山梨までゆくあずさ号に乗っていたとき
車窓から流れる景色をみながら
ふいに感じたことがあった。

酒折連歌賞で受賞式のスピーチの下書きを
かすかな緊張を伴いながら、眺めていたとき
あ、そうなんだって
いまさらながら気づいたのだった。

問いの片歌という577の形の句をつくって、
応募してくださるみなさんがそこに577で
歌をつないでゆく、
唱和するかたちの酒折連歌。

いまのいまになって、片歌って、問いかけの
形のままだといつまで経っても半分だなんだなって
思った。
あたりまえのことなのに、歌と歌がつながるってことを
いままでは頭だけでわかっていた感じだったのに
どっか身体の分からない場所が体感したような感じが、
走ったのだ。

ひとりっきりで歌をつくっている時は、歌が歌と
つながるってことはないに等しいし、そういうことは
考えたこともないのだけれど、片歌はかならず歌に
出会えるってことなんだなって思った。

問いの片歌が、そのまま差し出されている間は
すこし手持ち無沙汰にもみえてしまう。
けれど、応募作品が集まってきて、選を経ることに
よってわたしの片歌は、そこで必ず数多の出会いと
別れをくりかえして最終的にはひとつの歌に出会える。
出会えるって書いて、ピリオドを打ったけれど
そうじゃなくて、たぶんどうしようもなく
歌は歌に出会ってしまうのだ。
その道のりを思うと、あらためてどきどきする瞬間に
立ち会ってる幸せなことなんだなって感じた。

それからすると、人と人は出会って別れて別れたまま
だったり、薄情だったりするのだけれど、
片歌はかならず未知の歌とつながって、つながったまま
ひとつの世界の輪郭をふたりでつくってるようなもの
なのだ。

こうして書いていてももどかしくって、この原稿を
書こうって思った時の心の動きより、クールダウンして
いることが、なんとももどかしい。
なんか違うのだ。心の中が温もっていた感じが
ちゃんとここに取り出せてないなって思いながら、
さっきから同じフレーズの繰り返しになってしまう。
サビしかない歌のようになってしまって
なんとなくリフレインしかできなくなっている。

9年間、親しんできた片歌の魅力と云うかその577の
持っている器の魔力に、いま、手招きされて
いるのかもしれない。
こんなに立ち止まってしまうのは、今になって霧
が晴れて視界が開けてきたかのように、その誘う手の
動きがよくみえてしまっているせいなのかも
しれないなと思いつつ。
気持ちを引き締めながらもさらにどっぷりと、
もっともっと酒折連歌と親しくなりたいなと
思うこのごろです。

       
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