その二四四

 

 







 






 





















 

窓の青 肩先そめる 夕暮れがいる

ずっとみられていたわけでもなく視線が
まじわったわけでもないのにあの人の目は
どこをみていたんだろう。
彼の視線の行方をみえないてんでつないでいって
てんてんてんと手繰っていっても
どこにもいきつかないようなそんな視線だなって、
船越桂さんの彫刻をみるたびにそんなことを思う。

ギャラリーから帰って来て、家にたどりついても
なんだか、妙に気になる人に会ってしまったような
気がしてならない。
会話だってかわしていないはずなのに、とても
しずかな声をきいてしまったような気になって
残像にちかい形で、自分の中に視線がいつまでも
残ってる感じがする。

いちどテレビで船越桂さんを拝見して、とても
すてきな方だったので、この間近くで開催された
自作を語るというセミナーを聞きに伺った。

その時、この視線の話をされていた。
遠くをみつめてるような視線がすきだったことから
制作を始められたらしいのだけれど、だんだんこの
遠い視線は、対象物として誰かや何かがあるのではなくて
結局、じぶんをみつめてる視線のような気がすると
おっしゃっていた。

遠くに放たれる視線。遠くにあるものっていうのは
なんだろうと考えていたら、つまりは最も遠い存在。
わかってるようで、わららないのがじぶんじゃないかと
気づかれたのだとか。

彫刻の中に流れている時間というものを、内包させて
いるんですと語りながら。
すこし面白いエピソードを紹介してくださった。

船越さんは、からだを作る時にもからだとあたまの中心線を
すこしずらして制作されている。
そのことで、ひとつのだれかのからだのなかにちょっとした
時間差を生みたいのだっていうようなことをおっしゃっていた。

ある日、船越さんの友人がギャラリーにいらっしゃって
作品を目にしたあと、またしばらくしてふりかえってその作品と
目を合わせた時、みていらっしゃった方が、
<いま、すこしうごいたのかと思ったよって>
感想をもらされたのだという。

そのときとてもうれしかったんですよ、じぶんの思いが形になって
届いたような気がしてと船越さんは
やわらかい笑みのまま会場にいるひとたちへ、言葉にした。

その話をお聞きしてなんか、時間がひとりひとりの中で
ちゃんとずれているっていいなって思った。
だから船越桂さんが体現されるひとたちは、いまここに生きている
だれよりも静かな生を生きているただなかの人たちのようにも
感じられるのだなと。

そして、じぶんたち生身のひとりひとりにたちかえりながら
だれもがこういうふうに違った時間を生きているんだなって
思うと、思い浮かべる幾人かのなつかしい人たちが
記憶のなかでいきいきと動き出して来るのがわかって
なんだかじんとうれしくなった。

       
TOP