その二四七

 

 







 






 






















 

雲を読む あなたの背中を 読んでいる午後

むかし聞いていた時には、耳のそばをすっと
通り過ぎて行った印象がつよかったのに
いまになって好きになって、こういう原稿を
書いているときや、書類や本の片付けものを
しているときには必ず聞いている<とおり雨>という
曲がある。

コンピレーションアルバムの中の一曲なのだけれど
イントロが聞こえてくると、ぎゅっとなにかいまの
こころのはしっこあたりをつかまれた気持ちになる。
決して派手な音の並び方じゃないし、どちらかというと
フラットなのに時折ふいに転調される音の階段に、
軽くジャブを受けて、ふたたびつかまれてしまう。

歌詞のない音楽。インストルメンタルの曲を
聞いていると音のなかにたくさん言葉が
ちりばめられていることに気づいて、いつも
それを拾いそこねた感じがまつわりつくから
またもういちど聞きたくなる。

20代の頃はどうしてあんなにとんがった音ばっかり
聞きたがっていたんだろうと、古いCDのジャケットを
みながらそんなことを思う。
いつだったか俳句結社に所属していたころに、わたしは
とある大先輩の俳人の方に、「とんがった風船はとんがった
ところからしぼんでゆくことを知ってるよね、まりちゃん」と
教えられた事があったのだけれど、ほんとうにいちじが万事
そういうことなのだといまさらながら気づく。

村松健さんの<とおり雨>を耳にしながら、誰かが放ってくれた
言葉も、こんなに後になってその言葉の輪郭がうっすらとして
いたものがどんどんあらわになってゆくことを感じる。
ジャブのような言葉が、いまになってこころとかからだとか
名付けられないどこかに、軽い痛みをたずさえてやってくる。

<とおり雨>のピアノの調べのちょっと明るい未来を孕んだ
音の並びに気持ちがざわざわとゆれる。
とおり雨がとおり雨なのかそうでないのかが、いまだに
みきわめがつかない。しばらくすると晴れ間をみせてる
空をながめてる時に、はじめてあぁさっきのはとおり雨
だったんだと気づくときのあのなんともいえない虚を
衝かれた感じ。

雲をちゃんと読める人にすこしばかりの憧れがある。
空をきちんと見て、季節を測れる人にちかづけない
憧れがある。
そしてとおり雨みたいな出来事だったことをすこしだけ
思い出す。

       
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