その二五四

 

 





 






 





















 

てんとてん ぴりおどになる 線香花火

久しぶり鎌倉に訪れて、駅から材木座海岸まで
歩いた。

電柱やお店のガラスケースの内側に
鎌倉花火大会のポスターが貼ってあった。

花火って文字をみてもどうってことないし
頭の中で思い描く花火の図を想像しても平気で
いられるのに、どうしたことかあのどーんって
音が聞こえるとたちまちよわくなってしまう。

よわいって、つまりすきってことなのだけれど。

耳じゃなくて、からだのどこかに胸の奥の
ようなお腹のようなそんな場所に響く
にぶくて重たい音がする季節は、わけもなく
そわそわしてしまう。

このわけもなくってところがくせもので。
いまだに意味がわからない。
じぶんのからだにいまなにが起こって、こんなに
おちつかない気分になってしまうのか。
母には半ば呆れられているので、なんとなくこそこそ
した気分におちいってしまって、余計おちつかない。

台所で夕食の支度を終えたあたり、江ノ島や茅ヶ崎の
花火大会の花火の音がときおり聞こえてくる。

聞こえたらさいご、わたしは家のベランダに
駆け上がる。しばしそこで、打ち上がる花火の色を
みつけると、どこかしらほっとする。

ひとつでも見上げたら安心するのだ。あ、今年もまにあった
って。
たとえば、桜をあと何回みられるだろうと思いを馳せる
人がいるように、わたしの場合それは花火だったりする。

この間、線香花火のことについて書かれた記事を読んでいて
そういうことだったのかと、いまさらながら感心
したことがあった。

日本の線香花火もだんだん少なくなっているけれど。
中国と比べて日本のものはちゃんとあの一本の花火の中に
物語が綴られている事が綴られていた。

線香花火一本を、ひとつの人生に見立てているらしい。
はじめは<牡丹>のかたちで生まれて、生き生きとした
<松葉>のような火花が散って、中年を過ぎる頃<柳>のように
しずかにしぼんだ後に、さいごは<散り菊>になってゆくという
人生の起承転結が描かれているのだそうだ。

その文章を一読して、なんともいえないひたひたとした
気分に駆られた。
手に届かないけれど見上げる夜空に咲く花火と
すぐそばで触れられそうな線香花火の中にも
もうすでに触れられなくなってしまった遠い過去が
そこに再現されていたのかと、ちょっと途方にくれた。

やっぱりそうだったかっていうようなへんな確認だけれど
やっぱりそういうものなのかっていうような感慨。
夏が終わってしまう頃、今年は線香花火をどこかで
したいなってふいに思った。

天に近い花火と地に近い花火。
空白をうめるようにそのあわいに立つ誰かを想像していた。

       
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