その二五五

 

 






 






 






















 

はしゃいでも さらわれてゆく しらふなこころ

ひさしぶりに砂浜を素足で歩いた。
サンダルが砂に埋もれて、もどかしそうだったので
脱いでそのまま歩いた。

足裏にふれるあたたかい砂の感触が、フェルトの
ルームシューズを素足で履いた時みたいに、ここちよくて。
なにかにつつまれてる感じが、ちょっと新鮮だった。

春も秋も冬もそうかもしれないけれど、とりわけ夏は
風だったり太陽だったりいろんな気配が、からだに
じかにうったえてくるので、おもしろいなって
いまさらながら思っていた。

こどもだった時、海でさんざん陽焼けして。
火照った灼けた肌がちくちくするパイル地のTシャツを弟と
おそろいで着せられていた夏。
家族で帰省した時、鹿児島の祖父に玄関のところで
まちかまえていたように、ぎゅっとハグされた時のいたいぐらいの
肌の感触を思い出したりした。

祖父に抱きしめられた時、さっきまで日に照らされていた
背中や胸や腕が、こすれてかるい悲鳴を弟とふたりであげたことは、
いまでもだいすきな記憶のひとつになっている。

共に暮らしたことはないのに、誰の事よりもつよくつよく
思い出してしまうのは祖父のことだ。

記憶のりんかくがとてもあらわになる夏のせいだろうか。

八月のまんなかあたり。波の音と海の家から香ってくるお醤油の
焦げる匂いと、潮風のしめった風と。
若い女の子や男の子たちの狂騒も、雑踏で聞くときよりも
気にならない。知らない誰かの会話の合間にぽつぽつと
子供だった頃の夏休みがさしはさまれながら、ひたすらに歩いた。

そんな散歩をしていると、ゴーギャンの言葉じゃないけれど
ほんとうにわたしはどこにむかって歩いているんだろうって
そんな気がしてくる。
でも、歩いていることじたいが楽しくて、足をとめて方向転換
することがもどかしいぐらいの感じだった。

砂のあたたかさがずんずんとふくらはぎを通って背中を
かけのぼってゆくと、あの時の祖父の体温がよみがえって
くるようで、安堵する。

三十年以上も昔に祖父は死んでしまったのに。わたしはいまだに
祖父との記憶にずいぶん助けられてるなって気がしてくる。
いないのにいるようで。
なかなか手強いのだけれど。
その後、ひとなみにつらいことやかなしいことをすこしだけ味わった
時にも、まるで祖父のハグは処方箋のようにわたしの目の前に
ひらひらと舞い降りて来た。

うまくいえないけれど、記憶にぎゅっとされているような
体感ってやっぱりかけがえのないものなのかもしれないなって
今年の夏はことさらそんなことを思っていた。

       
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