その二五六

 

 






 






 





















 

ひきよせる あるかなしかの 水のからだを

ふかみどり色の如雨露の出がわるく感じて、
細い棒でなかをつついてみたら、正体はないのに
なんの仕業かわからないけれど、じょろじょろと
いさぎいいぐらい、水が口からあふれ出るようになった。

鉢植えの花も、きもちよさそうにごくごくと呑む。
かわいた土の上を水がしみわたっているだけなのに
花は喉がかわいているらしい。っていうふうに
思うようになっているじぶんにすこしたじろぐ。

夏の陽射しをたっぷり浴びた花達がいますごくのどが
かわいてるような感じがするって思うようになったのは、
いつ頃からだろうか。

母は幼い頃からねっから園芸の人のようなところが
あるけれど、わたしは苦手で不器用でその対極にいる
ようなところがあるので、そんな生き物たちに感情移入
することはないと思っていたけれど。
日常の積み重ねはやっぱり、あなどれないなって思う。
日々共にくらしているうちに、みえないぐらい
ゆるやかな速度で花のことがすきになって
いったのかもしれない。

庭のぜんぶがみわたせる窓に視線をあずけながら、
食事するのが日課になっているせいか、彼ら花達の表情を
見ない日はないのだ。

薔薇やオーストリアンセージやチェリーセージ、葉の部分だけが
残されたクリナムなどについて、つぼみのことや匂いのことや
花特有の病気の事について、気がついたら彼らの話題が
食卓にのぼらない日はない。

いまこうして書いていて、そうだったんだ。
母とわたしと庭の花達となんだかみんなで共に暮らして
きたのかもしれないっていう気がどんどんしてきた。

少し重たい如雨露を傾けながら、誰かが教えてくれた
<背負い水>の話を思い出した。
「ひとは生まれたときに一生分の飲み水を背負って生まれて
くるらしいんですよ、背中に」
そのときその方から聞いた、嗄れた声とちょっと甘美に
感じた倒置法が、ふいに甦る。

みえない水をこの人も背負ったまま、いろんな季節を積み重ねて
きたんだなと思いを馳せたけれど、じぶんの水については
あまり感心がなかった。

でもいま手にずしりとせまる水の重みを感じながら、いままで
どれほどの水に助けられて来たんだろうと、ちょっと神妙な
気持ちに一瞬だけ駆られた。
夏のおわりがけ、ギボウシが白い花を咲かせてる。
背中でたぷたぷゆれてるらしいじぶんの水、
きっとどこかでゆれてるあなたの水。
どうかあしたもちゃんとみたされていますように。

       
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