その二五九

 

 






 






 

























 

さざなみが ひとつうまれる みなみの海に

ほんのはずみのような感じで、こころに
まっすぐに届くことばを放ってくれる人がいる。

土曜日、墨の匂いのみちた部屋でおもいがけず
投げかけられたことばが、いつまでたっても
胸のずっと奥のほうで、じりじりとにじんでいて。
耳がそのことばをうけとめたせつな、からだのどこかが、
ちくたくちくたく秒を刻みだす感じで、
動き始めた。

しんぞう。わたしの。やっぱりあったんだって。

その後、久しぶり訪れるギャラリーに、野口毅さんの
写真展を見に行った。
アールになったほのぐらい壁をぐるりと囲むようにして、
現在と明治時代からの灯台の写真ばかりが飾られていた。

目の前ですっくと立ち尽くしている灯台の写真ばかりを
ながめるのははじめてで。
ひとつひとつの灯台と対峙していると、すこしくらくら
するような気持ちになった。
もともと会いたかった面差しに出会ったような
そんな感覚につかまえられた。

船乗りの人達のいのちをまもるためにまっすぐに岬に
たって仕事を全うしている姿。
いつもそこで見守っている存在が、こんなにも頼りがいの
あるものだったことに気づく。
道標になりつづけていたそれぞれの時間を、その写真の
中にみつけて、いまそこにある気持ちが包まれてゆく。

海は母だとしたら、灯台はなんとなくあこがれの父のような
風情をしている。
ひとつひとつの、というかひとりひとりと擬人化したく
なるぐらい写真の前で、わたしはじっと佇んでいたい
気持ちになったのだ。

こういう気持ちなんていえばいいんだろうと
感情にいちばんちかくで寄り添っていることばを
探しあぐねていたら、ちょうど剱埼の灯台を
見ている時に、ぽっかりとうかんできた。

情けなかったことや、悔いていること、いえなかった
ことばやそんなことを、すっとじぶんのからだの後ろから
道を失ってしまったみたいに、忘れていた。
灯台と向かい合わせになっている間は、ほんとうに
浄化されたような気分になっていたのだ。

くぐもっていた思いが、ひとつのこらずあたりの風景の
なかにとけこんでいく一瞬。

ひとつの建築物にちがいないのに、そこにはあたたかい体温や、
ほら、いきなさいって背中をおしてくれる頼もしさや
いやなことぜんぶ忘れなさいっていってくれることばを
はらみながら、むごんのうちに、放っていた。

ぐるりと見終わって写真家の方とことばをかわした後、
なぜだか、ほんとうに今まで気づかなかったけれど、
だれかのことを灯台のような光を放っている人だと
気づく瞬間ってあるんだなって、そんな思いが
ちっちゃなさざなみみたいにうまれてくるのがわかった
そんな土曜日だった。

       
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