その二六四

 

 






 







 

























 

夜の果て まぶたのうらに 曼珠沙華咲く

きしょうてんけつ。

きしょうてんけつのないせかいに憧れる。
たぶん、いまじぶんがここにいることは
き、しょう、てん、ぐらいのところなのだろうけれど
物事が順番にすすんでゆくことにかるい抵抗を
覚えるし、いつだってらんだむがいいなって
どこかで思っているところがある。

フィクションもノンフィクションも、着地する
場所を失ってしまっているような、
こころもとなさに出会うと、すこし安堵する。

10年ぐらい前に一冊の本の紹介記事で読んでいて
ずっと気になっていた言葉がある。
ロラン・バルトの「偶景」、アンシダン。
偶発的な小さな出来事。
前後のみさかいもない文脈によりかからない断章だけが
綴られた「木の葉のように落ちてくるあらゆるもの」で、
構成されているらしい。

探してみたのだけれどずっとみつからないから
じぶんの中で「偶景」ということばだけが
ずっと残ったままになってしまった。

ある日みたおとこのひとのスーツの背中。
江ノ電のどこかの駅で、降りて行った人が
足取りをふいに止めて、掲示板の前に佇んだ。
そこには、どこかのお寺で見頃の真っ赤な
曼珠沙華のポスターが貼られていた。

花に見入っている人の姿に出会うと、すこし
みてはいけないものをみてしまったみたいで
どきっとする。

曼珠沙華の花は、近くのお寺の土手などに
咲いていても、その朱色を確認するだけで
すぐに視界の外においておきたくなる。

こころがやわらかくなるといわれる花だけれど
なんだかヒガンバナの名前のせいか、
鮮やかな紅の色にずりずりと引き込まれて
しまいそうで、からだのなかのいっぽんの線が、
幾重にもぶれていきそうな感じがするから、
すぐに目を逸らしたくなる。

歩みを止めて凝視していた男の人のスーツ姿の
背中が残像となって、しばらくまぶたのむこうに
焼き付いていた。

電車が発車する。
曼珠沙華と男の人のグレーの背中だけを左に置き去りに
したまま、わたしは右へ右へと時間ごと移動する。
朱の色だけが空気のなかにながれて、
花の形をいびつにゆがませながら、駅は
七里ケ浜へとたどりつく。

その時、ぼんやりと、あの「偶景」っていうことばを
思い出していた。
たぶんどことなく違うかもしれないけれど
あの日みた風景がちょっと偶景めいていたら、
いいのになって思う。

はじまりもなく、おわりもない。
はじまりはおわりで、おわりははじまり。
いつもものごとは、はじまりとおわりのあわいの
なかでいきいきと育まれてゆくものなのかも
しれない。

       
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