その二七三

 

 













 







 























 

ぎくしゃくの 茎にあなたの ゆびさき触れて

すぎなとつくし。
すぎなはすぎなでつくしはつくしだと
思っていたけれど、これはふたつでひとつの
ものらしいことに、はずかしながらこの間
はじめて知った。

いつも楽しみにしている、川上弘美さんの
新聞の連載小説を読んでいて、そのことが
主人公のさよちゃんの言葉で語られる。
うしろの方に載っていたその文章のところだけを
切り抜いておいた。

すぎなは春になると地下茎となって、土の上に
咲く頃には、やがて胞子茎のつくしになってゆく
ことを理科の時間にならったらしいさよちゃん。

文字をひとつひとつ目で追いながら、読み終えた
せつな、ばらばらの生き物じゃないのよって
言われた時のちょっとずしんとした重みのある
生身を受け止めた時のとまどいに似たものを感じて
いっしゅん、たじろぐ。

べつべつのものがひとつにつながっていたことを
あらためて知るときの、驚きがその文章には
みちていて、どきどきした。
誰かの呼吸を感じたときにどきどきするように。

ふたつだけどひとつ。
よくわからないけれど、母と子のような関係。
子といってもまだ子にならないすがた。
お腹のなかですくすくと育っている胎児と母の
ような関係をなんだか想像してしまった。

ここにいます、ってみんなが声をあげはじめて
輪唱のようになってゆく、春のいきものたち。
ときおり、そのエネルギーのつよさに気圧されて
しまって、親指ずもうをしている時みたいに
ま、いいやって負けてしまう。

負けてしまったあと、とても感じるのは
わたしの身体を駆け巡るありとあらゆる
エネルギーが春のいきものたちに吸いとられて
しまったような感じ。

でも誰かといると春めいてきましたねって
ついついそういう気分がどこからともなく
やってくるようで。
あたらしい春の服に腕をとおしたくなるけれど
ひとりでいるとなんだか持て余してしまう。
もうなんども過ごしたはずなのにいまだに春は
じぶんにとって、いちまいの壁があるみたいに
すこしばかり、からだとこころになじみが
うすいようなのだ。

でも、こうやって小説の中にみつけた春は
じぶんのなかでなんだか共振しているような気がする。
春をどこかで拒んでしまう電気的なちからと
それとおなじぐらいフィクションのなかでは
いま訪れつつ在る春に、浮き足立ったりしている。
そのふたつが振れ幅をとても大きくゆらしてしまう
せいなのか、胸がざわつく。

うすばかげろうの幼虫が蟻地獄であるとか
蝶の幼虫が芋虫であるとか
すぎなとつくしはひとつだとか。
どこか目にみえないところでゆびとゆびを
つないでるような、いのちの営みは
言葉とか意味とかが途端にじゃまになってきて
もどかしい。

だからそのままに。
うまれたまま。すこやかに呼吸して。しんでゆくように。
不二。
ふたつにみえて、ほんとうはひとつ。
その手ざわりだけを憶えていたいのかもしれない。

       
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