その二七六

 

 





 





 








 























 

水に沈む 石をひろって ひみつをつむぐ

そういうものなのかなって思いながら
それを聞いてしまったら、それがそう
いうことなのか、なんだか気になって
しかたなくなるのかもしれないって
いちまつのそわそわを感じてる。

なんでもうちあけたほうがいいよって
言われて、うちあけてしまったことも
あるけれど、あぁしまってあったものが
どこからかあふれだしてしまって
それは逝ってしまったのだなっていう
気持ちになったことがあった。
ぜんぶもっていかれたような感じ。
その後味のはかなさを味わってから、
色と色のさかいめをにごしてその場を
はしょってしまいたくなる。

書評番組で「悲しみを聞く石」という本が
紹介されていた。
からだの自由を奪われて、意識もふたしかな夫に、
ずっと抱いていた秘密をうちあけてゆく話らしく、
ただ、ほんとうはちゃんと聞こえているかもしれない
ような描写もあって、なんだそのこわさにかとても
興味を抱いて見ていたのだけれど。
そこでゲストのどなたかが、<告解の神秘>ですねって
おっしゃった。

こっかいのしんぴ。

罪をだれかに明かすことの、カタルシスのような
ものが、行間にひしひしと流れている様で
いつかページをひらいてみたいと思った。

じぶんの器の中に、ひみつや罪でひたひたに
することには、限界があるのかもしれない。
抱えきれないなにかを、ぽろぽろっとこぼして
しまったとき、正直そこにはたしかな体積を
たずさえていたのかもしれないって思うぐらい、
そのものじたいの重量が若干、軽くなったような
気がする。

告げるっていう行為は、なにか思いを放って空気に
ふれたせつな、多少なりの重さが瞬間的に、
受け止めてくれるだれかのもとに移動してしまう
ものなのかもしれないなぁって思ってみたりする。

どこだったか失念してしまったけれど異国の石には、
おかした罪を告白して、その石が砕け散った時には、
その罪から救われるといういわれのある石もあるらしい。

ある日、他愛もない話をしていて。
人は死んでゆく前に、とても饒舌になるみたいよ、
施設のお医者さんをしている人が言ってたわよって
知り合いの方に聞いた。
聞いた時は、ふきんしんだけれど、人間って
どこかでぷらまいぜろにしてあっちにいくんだなと
面白がっていたのだけれど。
いまは、その情報は知らなくてよかったかもしれないと
ふいに耳にしてしまったことをすこしだけ悔いている。

だいすきな人が、そういう場面で絵巻に描くように
人生のことを語りだしたら、気が気でない。
その前後のこともなにも考えたくない。

雑踏を思い出す。
リュックを背負ってるおばさんも、携帯に慌てて出る
おじさんも、ひとごみを縫っているおばあさんも、
すれちがうとき、すこしだけ柑橘系の香料の匂いのする
おじいさんも、いろんな罪や秘密やくるしいことや
悲しいこととうまく折り合いながら
いまこの場所を歩いているんだなって。

それはそれは、いつだって尊敬に値する。

それにしても、昔から思っていたのだけれど
罰にはぜったいないのに、罪って響きはどことなく
甘美な音色にまみれてる。
交差点。
罪と罰のあわいにたっている気持ちだけを
いまここに置き去りにして。

       
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