その二七八

 

 

    さ




 






 










 























 

うたかたの 言葉が眠る 余韻の森へ

ぽつぽつっと来そうな、雨もよいのする円覚寺を、
知人と歩いていた。

砂利道をふみしめながら、自己紹介的な他愛もない話を
しながら、佛日庵を後にする。

風の冷たさに、皮膚がちくちくする不安を感じて、
今来た道をちょっと振り返る。
さっき何時間か前にここを訪れて三門を散歩していた時も
感じたことが、ふつふつとわきあがる。
それは今にはじまったことじゃなくて、はじめて
ここを訪れた10年程前もそうだった。

たくさんの参拝客が訪れて、色とりどりの洋服の色に
身を包んだ観光客や話し声が、あたりから砂利をふみしめる
音にまじって聞こえてくる。

だけど、なんだかその見ず知らずの大勢の人達が、
こんなにも境内ににぎわっているのに、なぜだか
ここは誰もいない場所にみえてくる。
そして、ジャケットや鞄や帽子や、靴の色だって、
それなりに鮮やかなのに、なぜだかモノクロームに
みえてきてしょうがない。

人の気配も色も消してしまうようなそんなふたしかで
ふしぎな空間だと思う。

この間、マネのことを紹介する美術番組をみていて
ちょっとした既視感に襲われた。

パリで活躍する写真家の男の人が、画家としてのマネを
語る時に、現代の地下鉄をひきあいに出していた。
大勢の人がいるのにどこか、醒めた感じがする都会の
地下鉄の車両の中。
その中にいると、ふとマネの「バルコニー」という絵を
思い出すと。
3人の男女がバルコニーのから外をみている感じなのに
その3人はまるで見ず知らずの人のようにだれとも
視線のあわない表情で、佇んでいる。

あらためて、「バルコニー」をみてみる。
たぶんどこかのギャラリーにこの一枚の絵が
飾ってあったら、じっとみているような予感がする。
こっちの視線がどこにもまじわらない、油断させて
くれる感じがとても心地いい。

ときに、ただならぬ風を感じたり、境内の奥への
坂道を歩いていると、どこに向かっていたんだっけって
いう錯覚もじりりと芽生えて来る事もあるけれど。

みんないるのに、いない感じは、ひどく人のこころを
安心させるちからをもっているんだなって思う。

帰り道、まだその感覚をひきずったまま、制服の若い
学生らしき人達といっしょに電車に乗る。
車窓にうつる濃い緑に、そこにいるだれもがまぎれてゆく、
そんなうたかたの一瞬がおとずれた錯覚におちいって、
体温がゆびさきからもどってきていることに
安堵していた。

       
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