その二八〇

 

 






 







 












 























 

おもいでの そとで生きてゆく 生きてゆけそう

小津映画をみていると、なにかを思い出す。
思い出すってなんだろうっておもいながら。

「晩春」をぼんやりみていたら、祖父の全身が
くっきりうかんできた。
じぶんでもあきれるぐらいわたしは祖父のとりこだったので
いまでもいつまでも、からだの内側にある感じがする。

小津作品を観ていると、もううっすらというより
べったりと小津安二郎の顔がいつもそこにある。
原節子が、もてあましぎみに鴨居の下を通り抜ける時も、
わざとお行儀をないがしろにして、夜のお茶漬けの
二杯目を食べているときも、なんだかいつだって
そこには小津安二郎が映り込んでいる。

でも、いるんだけどいないかんじでちゃんといる。
そんなふたりの関係性が、フィルムの上に故意に
こぼしてしまった珈琲色の液体みたいに、
きざまれている。

「晩春」はどうしようもなく祖父を思ってしまう映画
だけれど、
その時にうかぶ祖父は、記憶の中の祖父とは
すこしちがってみえる。  
うすいいちまいのフィルターがかかっている感じで、
たぶんよそゆきなんだろう。

この間、久しぶりに読み返していた小説の中に
父親が娘の頭を撫でるシーンが描かれていた。
はじめて読んだ時にも確かそこの件に反応したことは
記憶にあった。
そして再読した今もまたそこに立ち止まる。
時間が経ってちいさな娘だった主人公はおとなに
なってから、かつて父が頭を撫でてくれたことを
思い出す。
記憶を辿りながら、父親のすこし乱暴なその撫で方にいたく
安心していた女の子だった頃の自分に再会する。

この描写のあたりで、ふたたびわたしは祖父もかつて
こんなふうに頭を撫でてくれたことが、あったことを
思い出す。
思い出すっていうのはこういうことなのかもしれないと
その小説のページがそこから動けなくなってしまう。
あの日がここにあるような。
祖父と邂逅している気持ちがみなぎってくる。

撫でられた時、頭のてっぺんが祖父のぶあつい
手のひらのあたたかさでかあっと瞬間的に熱を
おびてゆく速度がよみがえる。
とりかえしがつかなくなるぐらいくしゃくしゃになる
わたしの短い髪の毛は、もうずっと、このままでさえいいと
おもってしまうぐらい、至福の膜に包まれて
いたのかもしれない。

こっちはあっちで、あっちはいつもこっちで。
そんなふうにこころゆさぶられるって
わるくないものだなぁと。

患者さんの途絶えたお昼休み、誰もいない部屋で
青い火鉢の前で煙管をふかす祖父が、わたしに気づいた
せつな、もうあしたがこないような笑みで笑いかけてくれた
その面ざしを瞳の中にとじこめて。

       
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