その二八一

 

 






 







 












 























 

気をつけて 散ってゆく声 探さないように

五月のさいごの日曜日、久しぶりに会うおとこまえな
女の人に誘われて、自由が丘にある大塚文庫まで、
詩の朗読会を聞きに行った。

<声をききにゆく>。
最初は漠然とそんなふうにしかイメージできなかった。
声だから耳だけが敏感になるんじゃないかというぐらいの
あわい未来の予想図。

でも、ワンフロアに置かれたソファを背もたれにして
じゅうたんに座って耳を傾けて、ちびちびと透明な
カップの中の白ワインが全身にゆきわたったころ、
そんな予想はかるく拒まれてしまった。

演じる人も聞く人も同じフロアにあって、
詩人の方が詩集を手に朗読が始まる。
バックにベースの音が小気味よく響いていたことも
手伝って、詩を読む声にリズムが肉付けされてゆく。

詩の声は耳をとおして聞こえて来るのだけれど、
じぶんでもふしぎなほど、耳だけでは聞いていない
ような気持ちにかられた。

それは、パフォーマンスしている詩人の方の身体を
ちゃんとめぐってきた詩の言葉がもういちど
わたしたちオーディエンスのからだをかけめぐって
どこかにたどりつくような感じ。

ひとりの詩人の方にくぎづけになる。
ラップでもない南の方言のイントネーションでもない
摩訶不思議なリズム感。
耳は、もしかしたら通過点にすぎないのかも
しれないとおもうぐらい、声となって現われる
その詩の中に出てくる<エスカレーター>も<書店>も、
<ふりかえる>も、こっちのからだで受け止めている感覚に
陥った。

ときおり、かすかな期待をもってめくってみても
ページの中でねむっていることばは、
ひびいてこないときは、死んだように眠っている。

でもそこにある詩はみなれないかたちでそこにあった。
あんなふうにおおきな男の人のからだのなかに、反響させて、
声になるとき、そのページの中の詩のことばたちは、
風にさらされながら、だれかのどこかへと
届いてゆくものなのだと思う。

届ける人のからだあっての声だと痛感する。
喉から先だけじゃきっと届かない。
こころも、もしかしたらあまり関係ないかもしれない。
日常の営みを経たたまものが、からだにやどったひとにこそ
おとずれる、肉も血もたずさえた詩の声。

おそろしくひさしぶりに聞くせいなのか。
ちょっと軽くあたまがもつれた感じがしていた。
からだのそとがわがたちまち耳になってしまったような
あの男の詩人の方のからだはまるで、打楽器のようだった
なって思ったり。皮膚のどこに触れても、声になるときには
楽器の音色で響いて来るような。

そのあとわたしたちは朗読という詩の皮膜を
ちゃんと風にまぎらせて、ちょっと早めの
よるごはんのお店へと歩をすすめる。

そして、朗読ではない久しぶりの他愛もない話を
ころがせながら、言葉も声もニュートラルに
もどってきたような、よそゆきじゃないことばの
中にときおりあらわれる、彼女が指し示す
こころおどる視点に刺激されながら、
やっとしずかにわたしは耳をかたむけていた。

       
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