その二九四

 

 




 







 

















 























 

ふたしかな 形をすくう 小石をすくう

よくよく聞いてると、その男の人は
つきつけられてる。
イエスなのかノーなのか。

世の中にはどっちみちイエスとノーしか
ないのだから、あなたはどっちって
畳みかけている女の人。
女の人はいつも問いを放ち、男の人は
その答えを探しあぐねている。

はいなのかいいえなのか、さいごのさいごまで
それしか言っていないそんな昔の曲に耳を
かたむけながら、この歌詞はとっても苦手だな
って思う。
思うのに、たぶんメロディのせいなのか
かけっぱなしにしたままこまごまとしたことを
する。

シリアルにあったかいミルクを注ぐ。
イチゴやリンゴのドライフルーツに
深緑を薄めたようなひまわりの種や
ココナッツのかけらが浮かんでる。
だだっぴろい白い海のボウルの中に。

白いってところがはじまりのような
果てのような。
みもふたもないぐらいとけてしまった
シリアルはもうすでに年老いた人の食べ物の
ように思ってしまう。
それでもわたしは子供の頃にさかんに
砂糖のまぶされたコーンフレークばかり
おやつに食べていたことを思い出したりしてる。

あの頃はなにがイエスでノーだったんだろう。
根拠のないイエスと時折おとずれる頑なノーに
囲まれていたような。

それが年月を経て、たとえばうっかり人をすきに
なってしまったりすると、このイエスとノーがどこか、
あとかたもなく、消えてゆく。
ちょうどその間にしかすべての答えがなくて、
選択肢はもうどこにもないような。

やっかいだと思いつつそのまんなかにある
「わからない」という現象に取り囲まれてしまう。
むかしのことだけれど、人と会話をしていてわたしが
発した言葉の八割以上はこの「わからない」
という五文字だけで成り立っていたことがあった。

イエスでもノーでもなく。と綴りながら、
長調でも短調でもなくと指が動く。
そういう音のつらなりのことを無調というらしけれど。
クラッシク音楽の番組かなにかで誰だったかが、
多分男性だったかとおもうけれど
無調という調べの比喩を
<とつぜん人になぐられたような>っていう表現を
されていた。

わたしはそのたとえを聞いたせつな、それこそ
<とつぜん人になぐられたような>感情に絡まれて
びっくりしたことを覚えてる。

そしてどういうイメージがころんでいったのか
ふたしかだけれど、とつぜんわたしは人と話していて
わからないという言葉しか発せなかった頃を
思い出していたのだ。

おそろしく他愛もなかった空間だったけれど
すくなくともわたしにとっては、まぎれもない無調の
音符がならんでいたのかもしれないなと思いながら。


 

 

 

無調

 

イエスとノー。

       
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