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た
名
前
を
落
と
す
夜
の
浅
瀬
に
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けもの色の ブーツのひもを むすんでほどく
久しぶりに訪れていなかった場所に
新しい珈琲ショップができていた。
エントランスのまあたらしい植栽の、青々しさが
まぎれもなくあたらしお店っていう感じがして、
入るのをためらった。
いつもあった場所に、違う顔の店が建っていると
ほんのすこしだけさびしくなる。
まえの店の名残がすっかり塗り替えられて
いることになのか、こういう風の冷たい
季節のはじまりのせいなのかわからないけれど。
こういうことは世の常だというのに、
そんな光景を見かける度にそんな気持ちになる。
そこを通り過ぎてひたすら歩く。
去年の冬に活躍したブーツで歩く。
ふたつの季節を眠っていたかたくななこの革の
硬さと、なじんだ場所がいつもとちがって
感じられるときの置き去りにされてみたいな
気持ちが似ているのかもしれないなと感じながら。
なじんでいたものがはじめてのもののように
感じるよそよそしさは、旅しているときの気分と
近いのかなと思う。
秋のはじめに知った、戸井十月さんの旅のドキュメンタリー
映像の中で映し出されていたフランコ・カッサーノの
「南の思想」という詩。
それは<ゆっくりしなければならない>という
ことばから始まっていた。
徒歩で歩んでいくことで、世界がなにかの
力によって開かれていくのをまのあたりにする
ひとのように。
<ゆっくりしなければならない>
歩むとは、<本のページをめくること>。で、
<本の表紙にしか目を留めることがない>
ときは、人はきっと急ぎ過ぎているのだろうと。
そんな内容の詩だった。
このことばに出会って、ゆっくりということに
ついて、じゅうじゅう知っていたつもりだったことを
悟られたような気持ちになった。
曲がり角を無意識に曲がったとき、いつもと違う景色が
あらわになったときの驚きがそこにあった。
その詩のさいごの方に<ゆっくり歩むとは 忍耐強く
待つ犬を真似することであり>と記されている。
そんな演劇的なことばを投げかけられたら、わたしは
一生ゆっくり歩むことなんてできないかもしれないと
半ば途方に暮れてしまうけれど。
でも<ゆっくり歩む>ことが、知らない世界の入り口
をみせてくれたみたいで、こころが晴れてゆく。
「南の思想」にふいにであったことで、すこしだけ日常が
ちがってみえることが、うれしかった。
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