その二九九

 

 






 






 




















 























 

まぼろしの 花火まとった そらそらそらが

有隣堂まで来年の手帳を買いに行く。
ぜったいまよう。まようじしんはある。
えらぶっていう行為がなんだか
大げさに書けば荷が重いのかもしれない
なんて思いつつ。

きらいなものは羅列できるのに
ほしいものはほとんとみつからない。
売り場では同じようにうろちょろと
いろんなコーナーで同じ人達とすれ違う。

小さい頃、ウインドウに飾られている服や小物を
見ながら母は、この中でいちばんほしいのはどれ?
って聞いてくることがよくあった。
瞬時にこれって答えないと、母は自分の好きな物を
勝手にママはこれって指さしたせつな、
その場を去って行ってしまう。
置き去りにされたあと、わたしの答えに耳を
傾けるためにではなく、それがほんの気まぐれな
反射的な口癖のようなものだと後になってから
気づいた。

そんな小さかった頃のかさぶたのような記憶を
掠めながらコーナーをうろうろしていると、
目にした一冊の手帳に目が止まる。
ほしいかもしれないものに出会うと、
少しずつだけれど、未来の時間をいま手に
入れようとしているようなふしぎな気持ちに
なってくる。

ささやかなりんかくをたずさえた未来。
なにかを選び終えると、若干の心残りを
ひきずりながらもほっとする。
手帳ぐらいで、じたばたしていては
いけないのだけれどあらためて、えらぶはたくさん
捨てることなのだと実感する。

いつだったかwantの語源は、欠けているという
意味だと知って、一瞬びっくりしたことがあった。
欠けているというはじまりが、ほしいに辿り着くまでの
みちのりを思って、ことばからおきざりにされた
気持ちになる。

それでもどこかで、ほしいと欠けているはまぎれもなく
つながっている感触を知っているような、既視感も
手伝ってわけもなく説得させられてしまう。

それはもう会わなくなってしまったひとの夢を
思いがけずみてしまった朝に似て、なんだか
もやもやとした霧があたりを覆っているような、
懐かしいような黄昏を運んでくる。

       
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