その三〇八

 

 






 







 


























 























 

あのひとが 圧倒的に いない夜です

春がもうそこまでやってきていて、どこかで
息を潜めながら、ときどきその尻尾をみせて
くれるようなこんな季節になるとなぜだか、
うかんでしまう光景がある。

ロシア民謡の歌詞のなかで出会ったような記憶の
あるペチカ。
壁に半円状につみかさねられたレンガで囲まれた
マントルピース。
そのまわりにはかならず誰かがいて、お父さんや
お兄さんらしき人が、黙って座っている。

喋らないけれど、どこかあたたかさが空間を
満たしているような。
わたしに兄はいないし、すっごく憧れていた子供の
頃はあったけれど。こういう経験はいちどもないのに。
コーヒーカップの外側や湯気のぬくもりを
からだが欲しているのかもしれない。

この間、村山槐多のドキュメンタリーを見ていた。
いつも筆から何かがほとばしっていて、そのエネルギーは
いつだって見る物の心にまっすぐ突き刺さってくる。
ガランスという鮮烈な赤のせいなのか、こちらの心の
奥の奥に触れて来るようなどうしようもなく
そわそわさせてしまう作品群。
彼が若くして死んでしまったあとに、友人たちが口にした
<我々はとりまいていたストーブを失った>という
ことばにじんとした。

歌人の福島泰樹さんが彼の人生を<今この瞬間に燃え
尽きた人>と評していらっしゃったことをたよりに、
槐多がずっとみんなのストーブであったことが、
なんだかいまのじぶんのこころにとても響いてくる
感じがした。

足下をあたためるアンカみたいな人もいるし。
白湯のようなほのあたたかい人もいるし。
たきびのようにめらめらといつもほのおの先が
ゆらいでいる人もいるなぁと。
過去や現在に出会ったいろんな人達の横顔が
浮かんで来たりした。

槐多評のストーブっていう単語を聞いてすぐに
思いだしたのが、今回の酒折連歌賞のアルテア賞に
入選した句。
「あのばしょできみのだんろがまっかにそまる」という
片歌だった。
問いの<ひらがなできもちつたえてゆびきりしよう>に
連なる答えの片歌として作ってくれた十歳の作品。

応募用紙に鉛筆書きで力強く記されたこの句にであった時、
ひらがながか放たれたあたたかさに思いがけず
触れたような気持ちになった。
ふしぎなことに、いつまでもからだのそばに寄り添って
いるような感じにつかまってしまった。

きっと十歳のかだだが感じている<きみ>は、
とてつもなくかけがえのないだんろなんだろうなぁって
思う。もしかしたら、こっちがおもっているよりも、
ひどく熱いものなのかもしれない。

春の陽射しにとっぷりつかっているまっただ中よりも
水温む頃を思い描いている中に春が隠れているんだなって
思ったりした。

       
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