その三一七

 

 






 
















 

























 























 

よるがきて ねむっているの ずっとよるなの

天気予報では西の雨に注意してくださいねと
アナウンスされていた日。
箱根まで遊びにいってきた。

いちど行ってみたかった強羅花壇で食事をした。
そのあとで、渡り廊下を歩いていると、外の空気が
まるごと通り抜けるような造りなので、
すべからく解き放たれたきもちになる。

山から吹いてくる風を、胸いっぱいに吸い込むと
マイナスな感情やいじわるな気持ちやあさはかな
思いなどが、ぜんぶあっちのほうへいって
しまって、浄化されたからだになった気がする。

そこからすこし足を伸ばして元箱根にある
成川美術館を訪れた。
昔いったとき、芦ノ湖を眺めながら遊覧船に
乗りたいねっていいながら、めくるめく
万華鏡を覗いたりした、むかしの時間が
そっくりもどってきたような不思議な感覚。

そこで開催されていた「毛利武彦の世界」追悼・回顧展に
魅了された。
画家のバックボーンはなにもしらないままに
展示されている絵の前に佇む。

なにかわからないけれど、だれかがわたしの
こころをわしづかみにしたまま
おだやかなこころがゆるされないような場所へと
連れられているようなそんな印象を持った。

昔訪れて知っていたはずの唐招提寺も描かれていた。
だけど、そのアングルは不思議で、千手観音の裾のあたりと、
ちいさな手だけ。九百何十本もあるらしいその手のすべてが
そこには描かれていなかった。
いままでその手は民衆を救う手のひらだとおもっていたけれど
毛利さんはそれを、<救われたいと願う当時の民衆の無数の声>
と説いている。
日本画としてのアングルも斬新なのだけれど、彼の言葉の
アングルもほんとうに興味ぶかい。

あといちばん好きだったのは、《くじゃくの風景》と題された
迫力のある作品。
これもまた絶妙な切り取り方で、くじゃくは画面の右よりに
羽根を広げて佇んでいる。
東洋画の伝統として描かれるくじゃくも、いままで
みたことのある世界観とはまったくちがっていて
あの蛇の目の紋さえが、ひとつひとつのいのちを
たずさえた生き物にみえてくるようだった。

厳しさを放つ絵の前にたたずみながら、
どの作品も制作されたのは、30年程まえのものなのに、
いまの日本に生まれてしまったじぶんのこころにそのまま
問いかけられている気がしてならなかった。

たちどまりたくなる作品群をみながら
毛利武彦さんが去年鬼籍に入られたことをしってなおさら
たちすくむ思いに駆られていた。

       
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