その三二四

 

 





 







 


































 























 

ひとびとの なわばり揺らぐ 記憶がゆれる

おもいがけなく、なみだを流すぐらい笑ってしまった
夜。
いままであった、笑ってる声もどこかに消えて、
凪が訪れる頃、ぼんやりとさびしくなる。
わらったあとのさびしさについて、誰かと
わかちあったことはないけれど、
いつもそんな感じにおそわれる。

なのに、ときどきそれが訪れる。
そんなにわらうと、あとさびしくなるよって
じぶんにそっと教えたいのに。
おもしろい出来事はときおり、突然やってくるから
そういうはめにおちいってしまう。

小さい頃からたぶん、そうだったかもしれない。
お腹を抱えてげらげらしたあと、ぽつんと
たちすくんでいたような記憶。
それがいまだに続いているような。

そして、猫じゃないけれどひとりになりたくなって
しまう。
それってへんな業だなっておもいつつ。
すこしだけ手がかりになるようなことばを、今年の日記の
9月あたりのページにみつける。

<すべての魚 すべての生き物 あなたにもテリトリー意識と
いうものがあるわけ。ご家庭とかね。ご家庭の中にも自分の
テリトリーってのがござんしょ>

これは、開高健さんがさいごの旅で遺したドキュメンタリー
「釣って食べた生きた」と題されたインタビューでの言葉。
あらためて開高さんの大らかさと繊細さがないまぜになった
彼の肉体から発せられる言葉にくぎづけになってしまった。

テリトリーって、魚や鳥やけものたち、にんげん以外の
専売特許のような気がしていたけれど、そんなことはなくて
ちゃんとひとのなかにも、みえないなわばりを張りながら
みんな生きていることにあらためて気づいた。

仕事の中のテリトリーだけでなく、家庭のなかにも
ちゃんとそれぞれのテリトリーを守りながら共存している。
でもひとそれぞれのものさしはちがうから、ときには
ぶつかりあうし、そむかれるし、土足でふみにじられたりも
する。

きづいているはずの現象をちゃんと言葉にしてもらうと
こんなに、すっきりするものなんだなって
秋の終わり頃なっとくしたことを思い出す。

みんなでわいわいしたあと、すっとひとりになりたくなる
のも。
これはどことなくじぶんのてりとりーを守ろうとしてる
ちっちゃいじぶんの輪郭がほのみえてくる。

それにしても、開高健さんの魅力がどこかなつかしいし
その懐かしさは、頼もしさへととけあって。
いまのことばを、あの関西弁のニュアンスたっぷりの
でっぷりとしたお腹から響いてくる声を、聞いてみたかった
思いに駆られる。
豪快な笑いの後の訪れる開高さんの長い凪が、いまはちょっぴり
むねのどこかに応えてくる。

       
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