その三二七

 

 






 







 































 

はなびらを いくどもぬいで 土に散らして

薄緑色の野菜が前菜にでてくるとき、
いつもウェイトレスのお姉さんの発するその名称に
どきっとするような、うっとりするような。

ろまねすこ。

ブロッコリーを幾分ひかえめにした、花がひらいた
ような姿が、サラダになって白くて長いお皿のはじっこに
載っかっているのを目にすると、なんかふいに
やさしくなってしまうようなそんな気がする。

味も野菜のようで、未然のようで。
野菜の輪郭すら忘れてしまったようなそんな種類の
味覚を身に纏いながら。
でも、いくらでも味わいたいわけじゃなくて
ひとかけらかふたかけらで、いいよっていう
そんなたたずまいが気になってしかたない。

たったひとつの野菜のことを、こんなふうに文字に
綴ってしまおうという気になってしまうわけは
その名前の音にあるのかもしれないなっておもう。

ろまねすこ。

古代ローマっていうかイタリアと和がまじりあって
生まれた野菜なのかなって、想像してみる。
遠くかけ離れたものどうしが、かけあったのに(たぶん)
どうして、こんなに淡いものが出来上がるんだろう。
改良に改良を重ねた結果かもしれないけれど、
どっちもとんがっていないって、ちょっといいなって
思った。

競わないということでなく、引っ込むという事でもなく
そこにある状態を、全身でうけとめて
おたがいをあるがままに拒まない。

そして、淡いけれどそれはちゃんとそこに存在していて、
名前にふさわしい風情をしている。
勝手につけたのは人間だけれど。

名前っていつもふしぎだなって思っていたし
名前から何かを辿ったときにみえてくる世界が面白いなって
思う。

名前もことばだし。
名前があるから存在しているって思うことも言葉だけれど。
そう思うと、ひともろまねすこも同じ地平に立っている気が
してくる。

たとえば、砂漠の真ん中あたりで。
うすみどりした、開花前の植物ようなたったひとつと
対峙したら、どことなく、ここで出会うのがあなたで
よかったって思ってしまうような、
そんな感情を引き出してしまうまろねすこ。

ほんとうのプロフィールはそのパスタ屋さんでみる
横顔だけで、じゅうぶんだから、みずから検索に
でかけずに、知らないままでいようと思う。

       
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