その三三五
 

 

 






 







 


















 

ひとしずく かけらを拾う 祈りの形

なぜか。近頃、小学校から高校にかけて
通っていた学園の中のお御堂を思い出す。
ステンドグラスから射し込む淡い光とか
ぎしぎしと音のするベンチのような長い椅子。

聖歌の歌詞がふいに頭のなかでかけめぐったり。
シスター達の紫色の法衣の腰元あたりから
歩く度に揺れる大きな十字架がゆれるロザリオ。

ほんとうにできのわるい生徒だったことは
確かなのだけれど、こんなふうにまたあの
場所に座ってみたいと思うこの感情は
なんだろうって思う。

あのころはじぶんが、何にむかって
祈ったりすればいいのかなんて、まるきし
わかっていなかった。
そもそも祈るということが、ほんとうは
どういうことなのかも、こころもからだも
なにもそこへと辿り着いていなかった。

でも、すこしずつ、年をかさねて。
楽しい事より若干かなしいことのほうが
多かったような気のする記憶をなぞりながら
だんだんと、祈るということがどこか自分の
内側から外側へと向かっている事がわかる
時がある。

それももしかしたら錯覚かもしれないけれど。
年老いた異国からやってきたシスターが
背中をまるめてままで懸命にロザリオを
握りしめながら祈っている姿に
出会う事がよくあった。

じぶんはあやふやだったけれど。その丸い背中から
ほとばしる祈る事へのとてつもないエネルギーが
はげしく伝わって来て、衝撃を受けた事があった。
正しいとか正しくないとかではないけれど
あそこに祈りのかたちが血肉となってそこにあるんだなって
いうことを、ことばにならない思いで感じていた。

以前訪れたアッシジのサン・フランチェスコ聖堂で
見上げた<小鳥に説教する聖フランチェスコ>の
フラスコ画。
厳かさと自然の豊かさがひとつの壁画の中にあることへの
畏怖のような想い。
祈ることの輪郭線が学園のずっと外へ外へと
伸びていって、わたしはますますなにもわからなくなって
いったような気がする。
でもその時の思いはずっとどこかにしまわれていた
みたいで。

いつだったか須賀敦子さんが書かれた随筆の中のことば。
<祈りに憧れて>という文章が時々浮かんでくる。
はじめてそのことばに触れた時、どこかはげしく
甘美なものに聞こえたけれど。
今思うと、あこがれてに視線を落としてみると
どこか遠く離れた場所へさまよい出てしまう
覚悟のようなものが絶えず存在していたのかも
しれないと、ひとりごころで思ってしまう。

かすかに鳴っている聖歌とゆれる蝋燭。
司祭の後ろからさしているステンドグラスの
やわらかなひかり。
あの頃はたいせつなものになにも気がついて
居なかったせいなのだと思う。
いまはそのことがすこしだけわかって祈りたい気分に
むかっているじぶんに気づいている。


       
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