その三三六
 

 

 






 







 

















 

雲もなく 留守のようです ふらここ揺れて

この6月はわたしには訪れなかったんじゃないかと
おもってしまうぐらい、足に車輪をつけて坂道を
転がるみたいに過ぎて行った。

三週間ばかりのひとりぐらしを久しぶりに体感
していた。
ありとあらゆる見知らぬ人と、さまざまな言葉を
交わして日々が流れてゆく感じ。

荷物をからだのあっちこっちに抱えたまま、
鍵をかちゃりとしめて、部屋にもどると、
静かななにもない空間が待っている。

棚の上にならんでいる韓国のお土産の梨の形の
小物入れや、ちいさなブーケにスペイン展でもとめた
黄色や緑が大胆にちりばめられた花が描かれたコップが
まったく昨日と同じ位置にあるはずなのに、
すこしだけ、遠い。

よそよそしいっていうのとは違うけれど、
どことなくそこらへんにあるクッションや
ぜんぶ形のちがう椅子たちが、所在なげな感じなのだ。

いつだったか川上弘美さんのエッセイを読んでいたら
<モノというものは、手をつくして集めるものではなくて、
どちらかといえば、寄ってくるもののような気がする>
っていうことばに出会ったときの、懐かしさを
手繰り寄せたくなる気持ちにかられた。

朝の洗濯が、夜の洗濯に変わって。
掃除や、模様替えや家事をなんとなく
こなしているととっぷりと、よるのよるに包まれて
いるのがわかる。

ささやかな部屋でも、誰かがいるのといないとでは、
異空間に迷い込んだぐらいの裏側の世界を
みている気がする。
なにげない雑貨ひとつとっても、そこにいる人とともに
その雰囲気はつくりだされているものなんだなって、
すべてを俯瞰してる気持ちでそんなことを感じていた。

ぼんやりめくる新聞の音が部屋に響く。
ふいに、<留守模様>って文字が目に飛び込んでくる。
工芸の世界ではよく用いられる手法らしく。
<物語を図象化するとき人物の姿を直接描かず背景や
小道具によって暗示すること>だそうで。

その記事では、光琳の「燕子花図屏風」が取り上げられて
いた。
そこには<燕子花の花しか描かれていないのに伊勢物語の
八橋の場面だとわかる>と、注釈がついていた。

わたしはそこに描かれている後ろに隠された
伊勢物語の世界よりもなんだか留守模様という言葉の響き
とその意味合いに惹かれてしまった。

あ人の姿がそこにいないのに、見立てたなにかで
それが誰かだとわかってしまうことのはかなさと、
人恋しさみたいなものが募ってしまうこころのありように、
いつまでもひたひたになってしまいたいような
名残惜しさを感じていた。


       
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