その三四一

 

 

 





 





 





















 

あの歌は つくつくぼうしの 声が呑みこむ

暦の上では夏はとっくに終わっている気が
していたのに、まだそこにいて。
風だけが、その次の季節を孕んでいるように
吹いている。

夏の午後の潮騒。
くたびれた誰かのサンダル。
誰かが歩いたあとの砂の窪み。
そこをたどって歩いてゆくと、醤油の焦げた
匂いがあたりにちらばって。

夏が来る度に、同じ景色にであっている訳では
ないのに、でじゃびゅのような、かつて馴染んでいた
夏がそこにあるような錯覚に包まれる。

ビーチパラソルのそばの陰の形に見入って
いたら、海のまんなかあたりから
陽に灼けた大きな男の人が、こどもの名前を
呼んでる声がする。

いつまでもいつまでもおとうさんらしきひとは
彼の名前を呼んでいる。
?ぃんせんと。
?ぃんせんと。

返事はないから、きっと彼は太陽の陽射しを
たっぷり浴びながらなにかに
夢中になっているところなんだろう。

人が誰かの名前を呼ぶ声は、いつ耳にしても
胸の中がしーんとしてしまう。
同じように、ふいに耳にした曲を聞いた時にも
そういう
似た感覚があるなって想っていた。

海辺の喫茶店に置いてあった雑誌をめくっていたら
ちょうどその気持ちに寄り添ってくれるような
文章に出会った。

アンティークショップの店主をされている
吉田昌太郎さんのことば。
彼は「涙の会」という風変わりな肩書きをお持ちで。
その集いは、<聞いていると、胸がキューンとなる
音楽を楽しむ>会らしい!

そのページには、ビー・ジーズやサッチモ、ローリング
ストーンズの曲が、ディスクと共に紹介されていた。
曲のニュアンスは乱反射するようにいろんなジャンルが
取り上げられていたのだけれど。

「涙の会」の吉田さんいわく、そこに集った曲の共通点は、
<キーが半音ずつ下がったり、転調があること、コーラスが
美しいこと・・・>

瞬間んぴたり、なにかを言い当てられたような気がした。

こころにじかに触れてくる曲に出会うと。
どこか高い場所からすとんと落とされた気持ちになったり
上手にはぐらかされたりして、切なくなったりする。
そのしくみは今でも不思議でたまらない。

最近、そのからくりにはまってしまったのは
ラテンの♪キエンセラ。
子どもの頃から、母が聞いていたせいか小さい頃の
思い出がしみついてしまっているのか、その曲が
流れてくると、一歩も動けなくなってしまってその
せつなとてつもなく開放感のある場所へと逃げてしまい
たくなる。

この夏は偶然に違う場所で、その曲を聞いた。
サビのところを耳が掠めるとぜんぶを
とっぱらっちゃったような気持ちが訪れた。

たぶんこれって、たまさかひとをすきになることと
こういう曲にであったときの心持ちって、
似ているのかもしれないなって想いつつ。

あおぞら、くも、くも、あおぞらのむこうに
海辺の音のそれぞれがすいこまれてゆくような
そんな夏のおわりの夕刻の景色を眺めていた。

       
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