その三八二

 

 

 






 







 




























 

散ってゆく あこがれてゆく とおりすがりの

 ゆきがとけると、みどりいろがめにとびこんできた。
 じっとみていると、そのみどりいろは、ゆきのおもみで
すこしうつむきかげんになった、水仙の葉だった。

 すっかりわすれていたものが、あらわになってゆく。
 そんな瞬間を、朝の冷たい空気をすうたびに、感じていた。
 そいういうことを感じる一瞬一瞬が、いまじぶんにとってとてつもなくだいじなことなのだと、かみしめるような。
 そうすることで、きもちをおちつかせてみたかったのかもしれない。

 ここに越して来てから十年以上経つのに、その水仙は
いちども地面から顔をだすことはなかった。
 だから存在していたことも、わすれつづけていた。
 地面の下、なにかとなにかとなにかがくみあわさって咲く準備をはじめたのかもしれない。

<はな>は、じぶんにとってとても遠い存在だったのにちかごろ、しぜんにじぶんの行動半径のなかにおさまっているきがする。
 ずっとずっと遠くにあったものが、あたりまえのように
ちかくにある。
 そばにあることが、むかしからの約束であったようにそこにあることが、ふしぎでならない。

 <花がひらく時期というのは様々である。>
という舞踏家であった大野一雄さんに捧げる
美術家の森村泰昌さんの文章を、よみながら、ささやかな
水仙の花のこともちらちらと視界をよぎる。

 <古希を過ぎて、開花して、臨終間際まで咲き続けたという、なんとも稀な花であった>
 そんなことばのつらなりをしずかに眼で追いながらいつかみた、大野さんの踊りを思い出していた。

 その筋肉に支えられた身体は、そのままどこかに浮遊してしまうのではないかと思うほど、軽やかにみえたり、この世の中のすべての苦悩を引き受けたかのように、身体の
ありとあらゆる関節に錨をぶらさげたまま、あたりの空気を濃密にしてしまうような、時間を表現されていた。

 身体の動きがとまったかのようにみえても、いつまでも
指が宙を舞うその姿はいまでも、記憶のどこかに焼き付いている。

 踊ることで開花したひとりのひととして、ほんとうにおどることの凄みを、その肉体と精神に費やされた時間のなかに、彼を発見してような気がする。

 あらためて、<花がひらく時期というものは様々である>という森村さんの文章に、立返って、ひととして咲いて散ることについて、ありとあらゆる思いが巡ってゆく。

 まだ、整理がついていないあたまのまま、十四年目にして咲こうとしている水仙の葉を眺めていたら、スナフキンの置物のある側で咲くその場所にふいに大野一雄さんの姿を重ねていた。

       
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