その三八三

 

 

 






 








 



























 

月満ちて ひとりしずかに とげをぬくとき

 なにげなく耳に入ってきたことばが耳の中をよぎって、みぞおちのどこかしらに着地する。
 むかし、知り合った人にものの気配を耳の後ろでキャッチするんですよってことばを聞いたようなきがして、いっしょにそのことばまで吹き抜けてゆく。

 さいきん、なにかを書き落としませんでしたか?
 そんなフレーズだったけれど、そう云われてわたしは余白の時間が訪れるとそのことばでいっぱいにしてぐるぐると頭の中に巡らせている。
 書き落としたことってなんだろうって思いつつ、書き忘れるとは、微妙にちがうんだなって、あらためてなにかをみつけたときのような気持ちになっている。

 おとすとわすれる。
 おとしもの、わすれもの。
 おとすとわすれてゆくもの。
 おとしものをして、忘れられてゆくもの。

 おとすは直前まで憶えていたのに不注意なのだと辞書が教えてくれる。
 でも、わすれるほうは、かつては思っていたはずなのに
わすれてしまうことらしい。

 ずっとずっと遠くにあったものが、あたりまえのように
ちかくにある。
 そばにあることが、むかしからの約束であったようにそこにあることが、ふしぎでならない。

 そういわれると、書き落としなんて数えきれないぐらい
あるような気がして来て、書き落としたものたちが宿る引き出しがあったとしたらその空間は隙間がないくらいいっぱいになりそうな感じまでしてくる。

 いつたっだか、精神科医で作詞家のきたやまおさむさんがおっしゃっていたことがずっと、気になっている。
<でも、こころって、まだまだことばになることを待っていると思う>
 目にしたときも、いま、こうして書き写しているときも、もやもやとしたような晴れたような、あたらしい気持ちになる。

 こころって文字にしたり声にだしたりすることに、引け目を感じていたのに、急に、かれらの居場所の風通しがよくなったような。すーすーとした感触がなんとなく伝わってくる。
 こころの行き着きたいところは、その輪郭がちゃんとあらわになるような言葉の世界なんだとおもった。
 ことばを紡ぐというけれど、そのことばのふたをそっと開けるとそこにあらわれるのは、こころのかたちなのかもしれないと、あたらしい場所にゆきついた気持ちになってくる。

 身おとしたり、わすれたり。
 わすれていたひとを、ふいに思い出したり。
 まだふわふわとした輪郭線しかないこころを、よくみないふりをしてちゃんとみて、名付けることこそが、だいじなんだときたやまさんの言葉のつらなりを眺めながら、つらつらとそんなことを思っていた満月の夜です。

       
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