その三八六

 

 

 






 





 
























 

つかんでも ふれてはきえる あかしあの花

 首のうしろがすーすーする。
 耳にかける髪もないぐらい、髪を短くしたこと朝起きた時に気づいた。

 髪を切った翌日、鏡にうつるじぶんをみかけたとき、懐かしく時間が後戻りしたような感じがふいにした。
 ちいさなころは、いつもこんなふうに短い髪で、赤いランドセルを背負って、バス停までの坂道をのぼったりくだったりしていたことなんて、すっかり忘れていた。

 あのころのじぶんがいるようで、なんだかもどるばしょにじぶんがもどったような、心地よさを味わっていた。

 たとえば、はじめてのひとにあったとき、あぁこのひと
とはどこかで会ったような気がする、あの懐かしさのなかには、どこかでじぶんとそのひとが一瞬、いつの日か、濃くなにかが行き交ったことを、思い出しているのかもしれない。
 そんなこととむかしのじぶんにあった懐かしさは、似てるのかもしれないなと、つらつらと、

 そんなことを思っていたら、折に触れてあたまのなかに
ぼんやりと浮かぶ白秋の<いつか来た道>が、うかんで
きえそうになって。
 きえそうなその記憶の尻尾をかろうじてつかんではすこしずつ開いてみる。
<この道はいつか来た道、 
ああ、そうだよ、
あかしやの花が咲いてる。>

 生物学者の福岡伸一さんのエッセイを読んでいたら、
「この道」が紹介されていた。
 この詩のよさは、それは<この詩が対話になっているから>
という件に出会った。
 はじめてこの詩を、メロディにのせて聞いた時、なんだかこどもごころに、すきとかきらいとかじゃなくて、じぶんを言い当てられたときの、おそろしさみたいなものが伝わって来たことを、あらためて思い出していた。

<ああそうだよと、言っているの誰だろう>。
 そうそう。この詩のふしぎなところは、ここだったんだ
なって気づく。この詩のなかにはふたりがいる。
もしかしたら、ふたりいじょうかもしれない。
<言葉が対になっていること。そこに関係が生まれ、相互作用が生じ動きがはじまる>。 
 福岡さんのお話は白秋の「この道」の詩を礎にして
<DNAが、美しい二重らせん構造をとっている>話へと鮮やかに展開してゆく。

 <重要なものは全部、対になっているから、>というワトソンの言葉を引用しながら、読み手をぐいぐいとわたしたちがもっているからだのなかのなかの仕組みや要素と要素の関係性へと、いざなってゆく。

 福岡さんのうごめく言葉にうながされるように、いつしかわたしも対であることの可能性を、じっとみている気がする。 
 はんぶんであることの魅力は、それがいつしかひとつに
なれるかもしれない、未来を孕んでいるからかもしれない


 たくさんの時間を経て、年は重ねたけれど、ちいさなころのじぶんをどことなく対になったものを抱えながらひとって生きているのかもしれないなって思ったりしていた。

       
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