その三八八

 

 

 




 







 

























 

もどれない 場所をしってる 波の旋律

 鍛えられた筋肉を携えた踊り手の男の人たちの幾人かが、波のようにうねっている。
 その上下する動きは、かれらひとりが欠けてしまっても、均衡が保てなくなるような危うさとかけがえのなさでもって、波を表現している。

 しばらくすると、その波のてっぺんにむかって年配の女性ダンサーひとりが、その波にからだをゆだねる。
 去年みた映画の中の劇中劇だったのに、そのシーンがとてつもなく印象的で、いつまでも目に焼き付いている。

 彼女が波にからだをゆだねるときの、絶対的な信頼を、彼らが体全体をつかってこしらえている波に感じている、その関係性が美しかった。
 彼らはひとのからだをもっているはずなのに青くみえる海の一部にしかみえないような、そんな錯覚をもたらしてくれる。

 <青に美を感じてしまうのは、海や大気の色だから>
<ダイヤモンドの輝きが美しいのは、水の反射を想起させるから>
 そんなことばを聞いたことがある。
 ひとつの光景を思い出すことは、
<それを見ているのと同じ体験が可能>らしい。
 わたしたちの脳はそういう性質をもっているようで、
<バーチャルリアリティによって体験できることが、
リアリティに直面したときの準備を与える>という件をよんだときは、とてもわくわくした。

 脳のなかでは、いつもなにかが準備されていて、美しい風景にであったとき、おそれよりも美を感じるようになっているのだと。
 なにかを美しいと感じることは、精神の安定をもたらす
だけでなく、直接わたしたちの生存に必要なことを受け入れられるためのリハーサルだったことを知った。

 凪だった水面が、乱されてゆらめき、もとあった水面の
場所へ戻ろう戻ろうとするときに、やむをえず生じてしまう波。踊り手の波のなかでほんろうしながらも、凛とした
からだを保ちながらどこかへと運ばれてゆくひとりのおんなのひと。
 互いの恋人たちが、昏睡状態に陥ったことで出会う、ふたりの男の人達を描いたスペインの映画に出会って、ふたたび波のシーンをあたまのなかで繙いてみる。

 
出会った頃のそれぞれのふたりのかたちは失ってしまったかもしれないけれど、彼らの献身的な愛情はちがうベクトルでもって最後のシーンで環のようにつながってゆく。
 あしもとにある見えない波が、彼らを導いている。
 ひたすらに、もとの場所へと波とともにもどろうとしている男の人達の静かなたくましさの輪郭は、ありありとまぶしい。

       
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