その三九一

 

 

 







 







 






























 

ぽつねんと 逃げ水うまれ 彼方の場所へ

 ひきだしのなかにあった、ちいさなビーズ状のものがフローリングの床にこぼれてゆく。
 あっというまにじぶんの掌から離れていってそのおびただしいほどのビーズは、あちらこちらにたのしそうに弾けていった。

 しゃりしゃりっとした音と、かすかなしゃぼんの匂いを立てながら。
 湿気を感じるとそのビーズの色が、桃色に変わる。そういう仕組みらしく、よくみるとフローリングの溝にまで、幾粒かがおさまっている。

 それを回収するにはとても面倒な作業だったのにしゃがんだ姿勢のままで、ちいさな箒をもって、床を掃いていると、滑稽でしかたなく、側にいるひとと共に笑い転げていた。

「そっとしずかに、しかもぴったりとドアを閉めるというような習慣が忘れられていく」ということばが、ふいにクリアファイルの中から透けて見えていた。

 そっと、しずかに、ぴったりと。
 かつてその感覚を知っていた場所から、失ってしまった今に向けて、たしなめられた気分になる。
 幼い頃、祖母にならったような気がするのに、もう誰も叱る人もいなくなって、無作法なままであることがあたりまえになってしまった日々が続いている。

 生きているとなにかをたえず失い続けている気もしてくるし。
 その失ってしまった物をかきあつめていったら、なにかとても心許ない建物でも建ってしまうぐらいのおおきさになってしまうのかもしれないと夢想してしまう。

「建築は ほほえむ」という本の書評の中に、<建築は目地のような隙間や継ぎ目をつくることで成り立っている>という文章があった。
 建築について細部にまで想いを至らせたことがなかった
ので、あらためてその視線が新鮮に映る。
 とりわけ<目地が笑う>という表現に惹かれた。
<継ぎ目が広がるという意味>らしく<建物が生きている
から>そういう現象が起こるのだとか。
 知らない世界はただただ面白く、いまいる場所からちょうどよい距離でもって逃避させてくれる。

 むかし住んでいた浴室にはタイルの目地があった。
 その頃のことを思い出していたら、それはどこかのかつてあった名もない町の路地のようにもみえてくる。
 ささやかな目地のことへの関心が、いつのまにか一枚の切り抜きから引き寄せられる。
 この気持ちがまだあたたかいうちに松山巌さんの著書
「建築は ほほえむ」のページをめくりたくなっていた

       
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