その三九五

 

 

 




 







 
































 

ゆるされて ひとしずくだけ たそがれてみる

 ちいさな庭で、さいきんとみにしげりあってるなまえのしらない草と読んで字の如く葛藤している。
 葛藤って、葛や蔓がもつれることを表しているってこの間、はじめて知る。
 ことばってうまいことできてるなって思いつつ。
 垣根にはりめぐらされたようになっている草をからめとる。
 人間にとっては、やっかいでしかないしろものだけれど
これが、なぜか、蝶や雀や蜂たちの好みらしくいつも長居している。

 黄色いような白い小花が、草のてっぺん辺りにテーブルのようにフラットなシルエットで咲く。
 そして、彼らが気に入っているのはどうも、匂いのような気がしてくる。
 ことばで表現するのはむずかしい、涼しげで、ちょっと金属っぽい冷たい匂いを放っている。
 でも、そこにいつまでも居たいような、そんな匂いではなくて、ちょっと穿った見方をするとなんだかやすやすと誘っているような、企みがしみ込んだようなそんな感じなのだ。

 そんなこと考えているひまあったら、しなくてはいけないことはごまんとあるのだけれど。
 夏は、なんだかんだいっても深刻なことを深刻に受け止められない季節のようで。
 すこしこころが助かっている。
 ひとの身体もこころも、すくなからずともお天気に左右される。
 それは致し方ないことだなって思う。
 外の風を感じることだって、この生身の肌で受け止める
わけだから、ひとはいつだって外気にさらされている生き物ゆえなんだと思うことにした。
 外気にいつも触れていたら、それが直接こころにまで到達してしまうのは、あたりまえのことなのだと。

 それよりもなにも感じないことのほうが、くるしいことなのかもしれない。
 土にまみれて、庭のあれこれが終わって、ポストをみたら、湘南の洋服屋さんのDMが入っていた。

 浅いガラスの器の底にちいさな珊瑚がしきつめられたウォータープラントという種類の植物のなかのひとつ。
 ウォータークローバーの写真が涼を運んで来てくれる。
 水と光で育つらしく、そのシンプルな風情が、
ちょうどガラスとの相性もぴったりだった。
 暑くても寒くても、植物たちはわたしたち人間のこころ
とは関係なく育ってゆくことに、あらためてひとしずくの
発見を憶えていた

       
TOP