その四〇一

 

 

 







 






 








































 

硝子窓 うがつように 一瞬が降る

 雨宿りもかねて、なつかしい匂いのする上野の喫茶店に入る。
 おもむろに降り出した雨が加速度的に雨粒をはげしく太らせながら、地面へと落下してゆく。
 案内された席がガラス窓から外の風景がみえる場所だったので、樹々の葉から伝わりながらしずくがおちてゆくさまがよく見える。

 思い出になるねと、雨を見ながら隣のひとが云う。
 一瞬なにもかよわないような、間があって、そのとき、
わたしは返事を多分しなかったと思う。
 隣のひとは、ほんとうにどこか心の底からそう思っているようで、ほんとうのことを云うと、それがわたしにとっては受け止めがたかったからなのかもしれない。


 ただただ、雨のしずくを見ていると、どこかここは、異次元の場所のようで、これから五分先のこともどうでもいいような、気持ちに駆られる。
 異次元であったらいいなと、そのこと自体を歓迎しているような気持ち。
 ガラスの内側にいるのに、その向こう側の雨を見ている時の、守られている感じが、心許ない。

 でもほんとうは、こころもとないきもちは、雨のせいでもなくて、さっき聞いた言葉が耳に残ってるせいなのだとわかっている。
 いつもそうだけれど、誰かの言葉に齟齬を感じてしまうと、口は閉ざすのにたぶん耳はおーばーあんどおーばー、なんども繰り返してしまう。
 思い出になるねって。
 たしかにそうなのかもしれないけれど、いつもなら雨にふりこめられたことへの、抗いをってつらつら考えながらも、舌の上で解けるカルピスのシャーベットが思いがけなく美味しくて、気持ちのベクトルが和らいだ。

 これおいしいねっていいながら、むかしよく作ったよねこういうのって、シャーベットのまわりに配置されたわたしたちは、冷凍庫で冷やしたもののオンパレのような話を続けた。

 マスカット、麦茶、濃いめのカルピス、蜂蜜漬けのレモンの輪切り、などなど。
 なんだか雨じゃなくてわたしは懐かしさに降り込められていたような気がして来て、このごろは振り返る過去が増えていることに、驚いたりしていた。

 その日の夜「きみへの誓い」という記憶をなくした妻が
夫と共にぶつかりあったり傷つけ合ったりしながら記憶を
とりもどすせつない葛藤を描いたアメリカ映画を観た。
 時折、夫のナレーションがつぶやく。
 記憶や決定的瞬間について。
「瞬間の積み重ねが自分を定義してゆく」という台詞がつかれた身体のどこかに着地する。
 その映画の中の夫のことばが夕刻の出来事とつながってゆく。
 思い出になるね。って穿つように降る雨を見ながら云われたことがいちばん思い出になってゆくような。
 結局、隣のひとは正しかったのだと降参していた。

       
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